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【SS】 春の霜 (指月喜代子) [SS]


「おばあちゃん。今朝はうんと冷え込んだから、もうちょっ
と暖かくなるまで家にいた方がいいよ?」

ひ孫を抱いた孫の智美が、外に出ていたあたしを呼び止めた。

「はっはっは。そうだね。すぐ戻るよ」

八十をいくつか過ぎて、もう若い頃のようには動けない。
それでも、あたしの幸福はある程度年を重ねてからじわじわ
と訪れた。

今更だけど、あたしはそれが本当に良かったと……思ってい
る。

あたしがまだ青臭い娘だった時には、この辺りは一面田畑ば
かり。春の気配が漂う弥生に降りる霜は大の苦手だった。
ぬかるみがひどくなるというだけじゃない。
それは……訪れかけた幸せまでどろどろに汚してしまう。

自分には一生幸せなんかやってこないんじゃないかって、そ
んな気にさせられたんだよ。

今は田畑が家並みで置き換わり、霜は舗装道路の上をうっす
ら覆うだけになった。
霜がどの季節に降りたって、大した違いはない。

それでも、春の霜はいやだね。
あの時を……思い出すから。



smo1.jpg




「やっぱり……俺とは一緒になってくんねえのか」

それは……本当に寒い夜だった。
同じ布団に入っていても、体の熱がどんどん奪われて芯から
冷えていく……そんな、辛くて長い夜だった。

「ごめんね」

「……仕方ねえさ。俺はこういう稼業だからな。キヨはまっ
とうなやつと所帯持った方がいいさ」

それは嫌味でも、諦めでもなく。
まるで運命がそうさせているような、切ない言い方だった。

あたしは、公さんに謝ることしか出来なかった。
顔を見たら、決心が揺らぐ。
あたしは泣きながら背中を向けた。

「ごめん……ね、公さん」

「俺も。そろそろ年貢を納めねえとな」

花街をシメていた高瀬組の若旦那が、出がらしみたいな娼婦
のあたしを好いてくれて。
たいした取り柄のないあたしには、まるで夢のようだった。

だけど。
あたしには、その夢の先が見えなかった。
夢を踏み外して落ちたところが、どこのどんな場所になるの
かまるっきり分からなかった。

あたしは怖かったんだ。
黙っていればすぐ融けて消えるだけの春の霜。
そのほんのわずかな間の冷たさが、あたしの足をすくませた。

公さんとの間で言葉が絶えて。
凍てつく戸外で誰かが霜を踏み鳴らすさくさくという音だけ
が、いつまでもいつまでもあたしを切りつけていた。


smo2.jpg



「因果なものだよ」

融けて跡形もなくなった歩道の霜。
あたしは、黒く濡れそぼる道を見通す。

あたしを請け出して所帯を持ってくれた順ちゃんは、あたし
を置いてもう逝っちまった。
本当に悲しいけど。でも息子も孫たちも、あたしの血を引い
たとは思えないくらいみんな優しいし、出来がいい。

それはあたしが望んでいた以上の幸せで、逝っちまった順
ちゃんには本当に感謝しかない。

あたしと別れた公さんは、気丈な姐さんを奥さんに迎えて、
立派に組を盛り立てた。

でも金も人望もあった公さんが、時代の流れに取り残された
のは皮肉なことだよ。
あたしとは逆で、若い頃いっぱい持っていた幸せを少しずつ
食いつぶしているように感じちまう。

「おばあちゃん?」

「ああ、ごめんね。もう戻るよ」

「霜は融けちゃったみたい?」

「はっはっは! そらそうだよ。もう三月だからね」

サンダル履きであたしの横に出てきた孫が、春らしくなって
きた青空を眩しそうに見上げた。

「これから一気に春花が増えるなー。お店が忙しくなるわ」

「花屋は賑やかなのが一番さ。ありがたいことじゃないか」

「うん! 生花の仕入れ計画立てとかなきゃ」

「さあて。お茶にするかね」

「瞳におやつ用意しなきゃ」

「はっはっは! まだひなあられがあるだろ」

「わ! そうだった。ラッキー!」

「はっはっはっはっは!」

あたしは。
もう一度、霜の融けた路面を振り返った。

春の霜はすぐに融ける。
でも、それは融けてからじゃないと分からない。

あの時、公さんの手を取っていたら。
ほんの少しの霜を我慢することが出来たら。
あたしは、今どうなっていただろう?

日が当たった路面から、ゆらゆらと湯気が上がり始めた。
その揺れの中に。

あたしは自分の幸福と後悔を両方見る。

「やっぱり……春の霜はいやだね」






(補足)
指月喜代子は、花屋さんフルール・ド・ジュイユの住居部分
に住んでいるおばあさん。花屋を切り盛りするお孫さんの田
代智美とそのご主人、そしてひ孫の瞳ちゃんが一緒に住んで
います。

花屋は、元は仏具屋さんでした。指月さんのご主人が亡く
なったあとで、お孫さんが脱サラして始めた花屋に改装され
ています。
いっきは、智美が経営に失敗して開店休業状態になってし
まった花屋さんの臨時オーナーとしてその店を盛り上げ、お
ばあちゃんや智美ちゃんにとても感謝されています。

そのあたりのことは、一年生編の第59話から第64話を読
んでいただければ。

おばあちゃんは、朗らかで人当たりの柔らかい人です。
でも、商売のことになると鬼になります。
孫の智美のやり方には最初全く口を挟まず、わざと失敗させ
て強いお
灸を据えたりしてますね。

おばあちゃんが娼婦だった頃の上客が、糸井先生の祖父高瀬

公作。もしおばあちゃんが、高瀬さんの手を取っていたら。
全く違った物語になっていたことでしょう。(^^)

【SS】 彼女にとって普通ということ (佐倉 唯(ゆいちゃん)) (二) [SS]


「ゆーいー、天交くんが来たわよー」

「わあい!」

タカトと一緒にいられる時間は、わたしにとってのゴールデ
ンタイム。
ネガティブな感情に押し潰されそうなわたしが、自分を取り
戻せる大事な時間だ。

一分一秒も無駄にしたくなくて、玄関までぶっ飛んでいく。
ああ……大好きなタカトの顔が、わたしを笑顔で包んでくれ
る。

「メリークリスマス、ゆいちゃん」

ちゃんは要らないのにー。
ママがいるから気を遣ったんだろなー。

でも、タカトは中に入ろうとしなかった。
玄関先で突っ立ったまま。

え? どして?

わたしがタカトから手渡されたお菓子の袋を受け取ったら、
少し寂しそうにタカトが微笑んだ。

「ごめんね。一緒にクリスマスを過ごしたいんだけど、お袋
が……」

えっ!?

ざあっと血の気が引いた。

「だ、だいじょうぶ……なの?」

「今回使ってる抗がん剤の副作用がすごく強くて。お袋、今
は動けないんだ。バイトの後で買い出しとかしないとなんな
いの。ごめんね」

「ううん、お母さんのことが一番だよ。しっかり看てあげて」

「ありがとう」

わたし以上に心配そうな顔をしてるママに向かって深々おじ
ぎしたタカトは、なごり惜しそうにドアをそっと閉めて。

……帰っていった。


           −=*=−


わたしは……自分の部屋で。ベッドの上で。膝を抱えて泣い
た。

「ぐすっ。ぐすっ。ひっく」

わたしは普通じゃない。普通なんかじゃない。
さいってーだ。

自分に何があったって、それはそれ。
今、ものすごくしんどいタカトのことを……もっと察してあ
げないとならないのに、自分のことばっか考えてる。
自分の傷ばっか見てる。

ねえ、ゆい。
あんた、いつからそんなにエラくなったの?
みんなが自分のことを慰めてくれて、気遣ってくれて当たり
前って……考えるようになったの?

タカトも、しんどい状況の中で必死にがんばってる。
自分の夢を諦めたくないって、もがいてる。
だから本当は……わたしのことなんか考える余裕はないのか
もしれない。

でも自由になるわずかな時間を割いて、わたしにプレゼント
を買って、わざわざ持ってきてくれたんだ。

ねえ、ゆい。
それは当たり前じゃないんだよ。
普通のことじゃないんだよ。

「……」

前にタカトと電話してて、すごく気になったことがある。
負けず嫌いで、実際に負けたことなんかなくて、だから自分
はすごくしっかりしてると思い込んでたって。
でも、どうしても勝てない相手がいることに気ぃついたって。

それは……自分。

負けてばかりでずっと辛い思いをしてきた工藤くんや御園さ
んは、自分の弱さにもう負けたくないって思いが強い。
だからいつも自分自身をどやしつけて、しゃにむに前進しよ
うとする。
そのエネルギーが、すぐ自分を甘やかす僕には全然足りない
んだよなって言ってたんだ。

タカトがわたしの中に見たもの。憧れたもの。
それは、一度決めたらぐらつかずに進み続ける強い意思だっ
たんだろう。
そして、わたしも自分がそういう人間だって思ってた。

でも……。

わたしは、あまりに普通過ぎた。
何があっても、どんな障害があっても、それを乗り越えて夢
を掴むんだっていう気迫とか決意とか……本当は全然なかっ
たんだ。ただ、自分の夢にぼーっと酔ってただけ。

それで……いいの?
タカトにずーっと誤解されたままでいいの?

よくないよね。
それじゃ、タカトは化けの皮が剥がれたわたしを見て幻滅す
るだろう。
わたしはタカトに捨てられてしまうかもしれない。

そんなの絶対にいやっ!!

わたしは……自分の弱さを……普通の女の子だってことをタ
カトにちゃんと理解してほしい。
でも。同じようにわたしも、タカトがスーパーマンなんかじゃ
なくって普通の男の子なんだってことを、きちんと理解しな
いとならない。

「ふう……」

今。
お母さんの闘病生活を支えてるタカト。
わたしはただもらうだけじゃなくて、あげられるものを何か
考えないとならない。

それは、わたしにとって辛いことじゃないよね。
タカトが喜んでくれることは、わたしにとっても幸せなこと
だもん。
それがいつか、わたしの恐怖や後ろ向きな感情を薄めてくれ
るだろう。

わたしは、普通の女の子だ。
でも普通だったら、普通の子に出来ることはわたしにも出来
るんだ。まず、そこから……始めよう。自分を動かそう。

「ママー。ちょっと出かけるー」

わたしはリビングに行って、テレビを見ていたママに声をか
けた。驚いたように振り向いたママが、まぶたを泣きはらし
たわたしを見て顔をしかめた。

「だいじょうぶなの?」

「少しずつ慣らさなきゃ。幼稚園のお見送りお出迎えじゃな
いんだから」

「……そう」

「すぐそこのコンビニに行くだけだよ。まだ昼間だし」

「そうね。そこから、ね」

「うん」




ox1.jpg

(オキザリス)








(補足)

ゆいちゃんこと佐倉唯は、マカと同じくいっきが二年生の時
のクラスメートです。三年でも同じクラスになりました。
ジャーナリスト志望の饒舌、快活な女の子で、新聞部の部員。
その取材姿勢、執筆スタイルはえげつなく、いわゆるゴシッ
プメーカー、壊し屋として有名でした。

でも運悪く、ゆいちゃん自身がスキャンダルの当事者になっ

てしまいます。
たちの悪いヤクザがヤンキーを使ってやらかしていた女の子
狩りに巻き込まれ、集団強姦の被害に遭ってしまいました。

警察に保護された直後に、なぜかいっきを病室に呼びつけた

いちゃん。いっきは、ゆいちゃんのマカへの恋慕を見抜
き、
自分の例をあげて心のリハビリに取り組むようアドバイ
スし
ました。

その後、いっきが仲人役をするような形でマカとゆいちゃん
が互いに告白しあい、晴れてカップルになったんですが。

めでたしめでたし……にはなりません。

ゆいちゃんの心には、まだ事件の傷が深々と刻まれています。
マカは、父親との衝突、母親の闘病、自分の進路の悩みと重
たい課題がてんこ盛り。

苦闘の時代が長いいっきやしゃらと違って、トラブルが起き
るまでは普通の高校生だったマカとゆいちゃんには、悲劇に
対する免疫がありません。
いっきは……そんな二人のことをすごく心配しているんです

よね。

 


【SS】 彼女にとって普通ということ (佐倉 唯(ゆいちゃん)) (一) [SS]


普通って、なんだろう?
他の人より優れてても劣ってても普通じゃなくなる?
じゃあ、わたしはもう普通にはなれないの?

わたしは、ものすごく頭がいいわけでも、かわいいわけでも、
気が利くわけでも、みんなに好かれるわけでもない。
自分では、ごくごく普通の女子高生だと思ってた。

違うの? わたしはもう……普通じゃないの?

「!!」

汗びっしょりで跳ね起きる。

「はあっ! はあっ! はあっ!」

クリスマスだっていうのに、朝っぱらからこんな冷や汗なん
かかきたくない。

それに……すごく息が苦しい。
胸のどこかに栓がはまって、呼吸を邪魔されちゃったみたい
な耐えがたい感覚。

「ゆい。あんた、大丈夫?」

わたしを起こしに来たんだろう。
ママが、わたしの真っ青な顔を心配そうに覗き込んだ。

「ちょっと……きつかった……」

ゆっくり、ゆっくり、深呼吸を繰り返す。

そうよ。ここは、わたしの部屋。
両親の他には誰もいない。
わたしは……何も心配しなくていい。

落ち着いて。
落ち着いて。

「ふうううっ……」

ベッドの上で固く目をつぶって、何度か首を振る。

落ち着け。
大丈夫。

「起きる」

「……。リビングにいるから」

「うん。着替えたら、そっち行く」

ママが、不安げに何度か振り返りながらわたしの部屋を出
た。

ベッドから両足を下ろして、床の感触を確かめる。
まだ……折られた方の足が痛むことがある。
でも、それは実際の痛みじゃない。

わたしの心を壊して、無理やり外に出ようとする恐怖感情。
それが暴れる時の痛み。想像痛だ。

もう一度、両手で顔を覆ってゆっくり首を振る。

あの時に……わたしを看てくれた五条さんていう婦警さん。
今でもわたしを気にして、時々電話をくれる。
わたしがしんどい時に、親身に相談に乗ってくれる。

その度に、繰り返し言われること。

「いい? 普通の生活に戻れたと思っても、必ずひどいフ
ラッシュバックが出るの。それも一度だけじゃなく、何度も
何度もね」

あの時のことは二度と思い出したくない。
だけど……思い出したくないのに鮮明によみがえって、わた
しを絶望のど真ん中に引きずり出す。

それが性犯罪被害の怖いところなの……五条さんはそう言っ
た。

もし。
もし五条さんが、エラい先生とか、常識人を気取ったオトナ
とかだったら、わたしは言われたことに全力で反発しただろ
う。あんたなんか、何もこの苦しみや辛さを分かんないくせ
にって。

でも五条さんは、自分も性犯罪の被害に遭って、ショックで
死ぬことまで考えた人だった。
婦警さんになってからも、わたしと同じように傷つけられて
しまった女の子のケアで体を張ってる。

その五条さんの言葉にはすごく重みがあって……わたしには
逃げ場がないんだ。

「忘れようとすることは出来るけど、実際に忘れるのは一生
無理だと思う。それなら、被害を受けた時以上の幸福をいっ
ぱい重ねて、少しずつ薄めていくしかないの」

うん。そうだね、五条さん。

普通だったわたしは、普通ではなくなった。
そして……もう二度と普通に戻れることはないんだって。


           −=*=−


「ゆい」

「んー?」

リビングで遅すぎる朝ごはんを食べてたら。
ママにいきなりお小言を食らった。

「午後から天交くんが来るんでしょ?」

「そー」

「少しは、女の子らしくしなさいよ。いくら天交くんが優し
いって言っても、彼に全部気遣いさせるのはおかしいんだ
よ? ったく」

「うー」

「クリスマスだっていうのに、何するでもないでしょ? 手
作りのものをプレゼントしなさいとまでは言わないけどさ。
少しは気を回しなさい」

「へーい」

ママのツッコミがちょー痛い。
その通りなんだけどさ……。

でもね、ママ。
わたしは気が利かないから何もしないわけじゃない。
したくても……出来ないの。

タカトに何かプレゼントしようとするなら、わたしは外で買
い物をしないとならないから。

夜。
繁華街の本屋に、注文してあった本を受け取りに行って。
その帰りに被害に遭ってしまったわたし。
あれ以来、夜でなくても外出するのが怖くなってしまったの。

学校への行き帰りも、ずっとしおみぃとタカトがついててく
れるからなんとかこなせてるけど。
本当は外で一人になりたくないんだ。

学園祭の時に展示した、新聞部特別号の取材。
あれだって、警察に取材に行く時には五条さんに送り迎えし
てもらってる。自力では……動けなかったの。

分かってる。
このままずっと、誰かの介助が必要な生き方なんてしていけ
ないって。

でも……まだ無理。
体につけられた傷は癒せても、心の傷は……なかなか治らな
い。自分がそんな弱い人間だったってことを認めたくないけ
ど……やっぱり虚勢は張れない。

わたしは。
普通の……どこにでもいる普通の女の子なんだもの。

 


【SS】 彼にとって普通ということ (天交高人(マカ)) (二) [SS]


いっきは……よく気が利くんだよね。
いや、気が利くっていうのとはちょっと違うかもしれない。
心の底を見透かすんだ。

前にバイトの相談をした時もそうだった。
僕の甘ちゃんのところをどやしたのは、父でも母でもない。
まだ付き合いの浅いいっきだった。

親からの自立を宣言しているのに、何も出来ないガキのまま
でいいの?

それは……どこにも逃げ場のないどやし。

同じ甘ちゃんの友達に言われたら、お互い様じゃんて思うけ
ど。家計をサポートするのに本気でバイトしてるいっきのど
やしには、何も反論出来なかった。

そのあと、進路をめぐる父との決裂が決定的になって。
余命のカウントダウンが始まっている母との暮らしが始まっ
て。
僕の甘えには受け皿がなくなった。
その時点で……余裕がどこにもなくなったんだ。

僕がゆいと付き合ってる時間は、僕にとっての唯一のオアシ
ス。ゆいだけでなく、僕はゆいと一緒にいる時間も大切にし
たいと思ってる。

でも……それはあくまでも僕の都合なんだ。
いっきと御園さんみたいに、互いを認め合うプロセスがまだ
全然足りない。恋人同士ではあっても、まだ形だけ。
普通じゃ……ないんだよね。

いっきの乾いた説明が、僕の自信をぐらぐら揺さぶる。

「ゆいちゃんは、最初からみんなにそう言われてるから違和
感ないだろうけどさ。天交くんをタカトって呼んでるのは、
ゆいちゃんだけでしょ?」

「うん」

「それは、ゆいちゃんにとっては特権だよ。僕は侵害出来な
い」

いっきは、僕だけでなくて、ゆいもちゃんと見てる。
そういう底なしの心遣いに、思わず嫉妬を覚えちゃう。

「すごいなー」

「なにが?」

「いや、そういう気遣いがさ」

「副作用だよー」

え?

「なんの?」

「しゃらの焼きもち!」

えええっ!? 思わずぶっこける。
よ、予想外。それは……知らなかったあ!

とってもそんな風に見えないけどなあ……。
分かんないもんだなー。

「な、なるほどねー」

「めんどくせーとは思うけど。配慮せんとさ」

「そっか」

「で、マカじゃだめ?」

「ほ?」

そうか。
名前をゆいに独占させるには、姓の方をイジるしかない。
でも、あまかいって呼びにくいんだよね。イメージ硬いし。
それを、そうやって砕くのかあ。うーん……。

「すごいなー。いっきのそういうセンス、天性のもんだね」

「まあ、友達増やすのに役に立つからね」

いっきが、ぱちんとウインクした。

「うん、それ、いいわ。マカ、かあ。じゃあ、いっきから広
げて」

「任しとき」

ああ……友達に恵まれたなあ。
勉強で勝ち負けを競わされる雰囲気が嫌で進学校じゃないぽ
んいちにしたのに、僕はみんなから煙たがられて友達が出来
なかった。でも……。

僕は本当に運がいい。
ゆいといっき。本当に僕のことを思ってくれる大事な恋人と
友達が出来たこと。

僕はそれを……普通のことだと思っちゃいけないんだろう。

いっきにぽんぽんと肩を叩かれる。

「たぶんさ。来年はマカと僕は同じクラスになる可能性が高
い。理系の生物込みでしょ?」

「あ、そうだね」

「そん時までに、照れなしで言えるように慣らそうや」

「んだね」

うねり出した列に押されるようにして、僕はいっきと別れた。

「じゃねー、またー」

「うん。またねー」

普通でありたい僕がいて、普通でいたくない僕もいる。
どっちかだけが正しいわけじゃなくて、きっとどっちも正し
いんだろう。

和菓子屋さんでクリスマスのお菓子を買う。
それが僕だけだったら、僕は普通じゃないのかもしれない。
でも、これだけ大勢のお客さんがお菓子を買いに来てるんだ
から、僕は普通なのかもしれないね。あはは。

列が進んで、やっと店内に入れた。

「いらっしゃいませー!」

アルバイトの女の子の威勢のいい声に弾かれて、僕はすぐに
ショーケースに目を落とした。

「わ!」

す、すご!
オーナメントが和菓子じゃん!
味の予測がまるっきり付かないって時点で、すでに普通じゃ
ない。

うーん……思わずうなっちゃった。

普通と普通じゃないのと、どっちがいいかって選ばなきゃな
んないなら。

やっぱ普通じゃないのがいいかなー。





ox2.jpg

(オキザリス)




(補足)

マカこと天交高人は、いっきが二年生の時のクラスメート。
ぽんいちでは一度もトップの座を譲ったことがない、ずば抜
けた成績を誇る優等生です。学力が図抜けているだけでなく、

プロ棋士の父親の薫陶もあって将棋の実力もプロレベルで、

将棋部の部長をやってます。

闘志や負けん気を表に出すタイプではありませんが、ものす
ごく気が強いです。根っからの勝負師ですね。でも、負けん
気が外からわからないために従順に見えやすく、息子をプロ

棋士の道に進ませたい父親と進路をめぐって正面衝突してし

まいます。彼自身は、医師志望なんです。

いっきは、マカが家を追い出されたあとのケアを五条さんと

一緒に手伝い、彼にすっかり懐かれてしまいました。いっき

にとっても、天才肌なのにどこか間が抜けてるマカは気の置

けない友達です。

クラスメイトの佐倉唯が恋人。甘党の彼らしく、二人の仲も
ベタ甘です。でも、それにはちゃんとわけがあります。

 


【SS】 彼にとって普通ということ (天交高人(マカ)) (一) [SS]


普通って、なんだろう?
他の人より優れてても劣ってても普通じゃなくなる?
じゃあ、だあれも普通の人なんかいないと思うんだけど……。

僕は普通じゃないのかなあ。
最近、僕はそれがすごく気になるようになった。

僕は、将棋の世界が好きだ。
ぎりぎりまで自分を研ぎ澄まして、戦略も、ひらめきも、駆
け引きも、はったりも、使えるものはなんでも使って相手を
打ち破る。
引き分けのないひりひりした勝敗の世界。それが好きだ。

勉強もそう。
自分をきちんと鍛えて研ぎ澄ましたことが、ちゃんと点数っ
ていう結果に現れる。
自分自身に課したハードルをきちんとクリア出来るか。
僕にとっては、嘘やごまかしが入らない点数の世界は自分の
評価にぴったりだと思ってる。

でも、点数にはそれしか意味がないんだよね。
僕は、点数の優劣を人と比べることには興味がない。

誰かが僕に、勝負にこだわれって命令してるわけじゃない。
歌が好き。ゲームが好き。友達と遊ぶのが好き。
他の子がそう考える同じレベルで、僕は将棋と勉強が好きな
んだ。

それは……普通じゃないんだろうか?

確かに勝ち負けにはこだわるよ。
でも僕は、なんでもかんでも勝負の世界に引きずり込むつも
りなんかない。そんな窮屈な生き方はしたくない。

自分をぎりぎりまで追い込むのは、将棋と勉強だけでいい。
それ以外は普通だと思ってるんだけど……。

違うのかなあ。

そんなことをぼんやり考えながら、僕はあるお店の入り口か
ら長ーく続いている行列の中に挟まっていた。


           −=*=−


クリスマスが近くなると、気分がうきうきしてくる。
だって、僕は甘いものが大好きなんだ。

どこの洋菓子屋さんでも、クリスマス用の気合いの入ったお
菓子を売り出すようになる。
それを食べ比べるのが、すごく楽しみなんだよね。
だから、市内の有名どころのお店は全部覚えてる。

中でも、口コミで評判を聞きつけたタルボットは別格。
あそこのケーキは衝撃だったなあ……。
単においしいってことだけじゃない。どの種類のケーキやお
菓子を買っても当たり外れがなかったんだ。
どれ一つ、妥協してないっていうかさ。

しばらく、どっぷりはまったんだよね。
でも、その後でもっとでかい衝撃が来るとは思わなかった。

そう。
寿庵を知ってしまったから。

二年生になってすぐ。
工藤くんからその店の名前を聞いても、最初はぴんとこな
かったんだ。
正直バカにしてたんだよね。和菓子なんて古臭いって。

いやいやいやいや、とんでもない。
寿庵のお菓子には、僕のお菓子に対する固定概念を木っ端微
塵にする破壊力があった。

それは、何にでも触手を伸ばして取り込んでいくアメーバの
よう。和菓子はこういうものだっていう決めつけを、徹底的
に拒否していた。
しかも、奇をてらったげてものなんかじゃない。
どれもすっごくおいしいんだ。

そりゃあ、おじいちゃんおばあちゃんみたいな年配の人から
見たら、あそこの新作お菓子は邪道なのかもしれない。
でも、工藤くんや御園さんがすっごいほめてたみたいに、僕
らみたいなガクセイにはすっごい引きなんだ。
手頃な値段でおいしいお菓子が食べられて、しかも他の店に
同じものがない。

ねえ、寿庵の新作、もう食べた? すごいよ!
そんな風に、友達にがっつり自慢できる。

おしゃれだとか、今風とか、斬新とか、そういう何かを狙っ
てお店を尖らせるんじゃなく。
作りたいお菓子を研ぎ澄ましたらこうなったみたいな、肩の
力が抜けた、でも完成度の高いお菓子。
そういう意味じゃ、寿庵は普通じゃない和菓子屋さんだ。

僕は寿庵を知ったことで、『普通』ってことの意味を深く考
えるようになった。

普通ってこと。
本当は、そんなのどこにもないんじゃないのかなって。


           −=*=−


「お、天交くん。仕入れ?」

げ。工藤くんやん。見られたくなかったなあ……。
でも、工藤くんは寿庵で買ったお菓子の袋を持ってる。
それなら同類だよね。まあ……いっか。

「わ、見つかったかー」

「僕も並んで買ったんだけど、オトコにはちと恥ずいわー」

「あはは。でも、どうしても買いたくてさー」

「うん。相変わらずすごいなーと思う」

おおお! それは期待大!

「工藤くんは、もう食べてみたの?」

「まだー。ってか工藤くんじゃなくて、いっきでいいよ」

そうなんだよね。
僕は普通だと思ってるんだけど、僕のクラスメートにとって
は、僕は近寄りにくいキャラなんだろう。
自分がそう見られてると思うと、僕も友達をあだ名で呼びに
くい。だから……どうしても距離が縮まらない。

工藤くんがブロークンで行こうって言ってくれたのは、本当
に嬉しかった。

「なかなか、ニックネームで呼ぶタイミングが掴めないもん
だね」

「んだ。僕も、同じクラスの中で、愛称で呼んでるのは半分
くらいだもん」

「そっか……」

友達の多い工藤くん……おっとっと、いっきでもそうなの
かー。僕は、正直ほっとする。

「じゃあ、お互いさまってことで、僕のことはタカト……と」

すかさず、いっきからダメ出しを食らってしまった。

「却下」

「ええー?」

今、愛称で呼べって言ったじゃん!

「どしてさ」

「ゆいちゃんにどやされるもん」

「あ……」

こういうところ。
僕には……すっごい自己中のところがある。
自分の中の一点に意識が落ちると、他に何も見えなくなる。

 


【SS】 制約 (上野千鶴、リドルのマスター) (三) [SS]


夫とお義母さんに週一の半日勤務の話をして、事後になった
けど了解をもらった。
お義母さんは、素直によかったねと喜んでくれた。
夫はあまりいい顔をしなかったけど、無理やり家に缶詰にし
て精神病まれるよりはマシだと割り切ってくれたんだろう。

それでも気になったのか、変装してこっそりリドルに来てた。
あはは、大丈夫だって。心配することなんか何もないって。

マスターには、しなければならないことが山のようにある。
でも接客しながらじゃ、それ全部はこなせない。
バイトのわたしたちは、お客さんが途切れてもマスターとの
んびりくっちゃべってる暇なんかない。
腰を傷めてるマスターの代わりに、掃除や下拵えを先回りし
てどんどんこなさないとならないの。

そしてね、それは家庭に入って家事に慣れてるわたしが一番
てきぱきとこなせる。そこがわたしの売りなんだ。

自信を取り戻したわたしは、子供たちにも優しく接すること
が出来るようになった。
忙しくなったのに、逆に余裕を持てるようになったなんてね。
ほんとに不思議。

そうして何回か無難にバイトをこなしたある日のこと。
上がりの直前に、前から気になっていたことをマスターに聞
いてみた。

「マスター」

「ん? なに?」

「ここって、男の子のバイトは入れないんですか?」

「入れない。うちは地味だからね。その分、お客さんを呼び
寄せる工夫をどっかでしないとならないの。それが看板娘。
男の子じゃ務まんないよ」

「ふうん……」

「お客さんにはそれぞれ好みのタイプがある。みこちんの時
には一人で十人前の求心力だったけど、そんな娘はそうそう
いないからね」

なるほど。

「同時に二人働く時間はないから、不本意に君らが比べられ
ることはないと思うけど、自分の出の時にはお客さんが少な
いっていうのは嫌だろ?」

「確かにそうですね」

「それを緊張感と意欲に変えてくれればいいよ」

「すごいなあ」

「いや、こういうのも試行錯誤さ。みこちんが辞めてから上
野さんたちが来るまでの間に試用した二人は、とんでもなく
ひどかったからね」

「ひどかった、ですか?」

「そう。接客の基本がまるっきりだめだったの。ボランティ
アで人なんか雇うもんじゃないわ」

マスターが、やれやれっていう表情でカウンターテーブルの
上にクロスを走らせた。

そうか……制約があるからこれくらいでいいやっていう妥協。
マスターもそれをやって、痛い目にあったってことなんだ。

わたしもこの半日の仕事をしている間に、自分のこれからを
よーく考えないとな。
ずっと専業主婦で行くのか、どこかに勤めに出るか。
わたしの意向だけじゃ決められないことだし、ちゃんと目的
や目標を考えないとならない。

制約はある。いつでもある。
その中で、自分がしたいこと、自分に出来ることを探して、
実現させる方法を工夫する。
それを、リドルを卒業するまでの間にしっかり勉強しなきゃ
ね。

「じゃあ、お先ですー」

「お疲れ様ー。あ、そうだ」

「なんですか?」

「この前、お義母さまが見えたよ?」

「え!? な、なにか……?」

「いや、上野さんの働いてるのはどんなとこかなーって見に
来た感じで」

あちゃあ……。

「で、常連さんに捕まって一緒に盛り上がってた。楽しいか
らまた来ますってさ」

どごおん!! う……うわ。

「俺は、ここをそういう場所にしたかったからね。お客さん
が増えて嬉しいわ。はははっ!」

マスターが、茶目っ気たっぷりに笑った。

うん。
ここのアットホームな雰囲気には、制約なんか何もないもの
ね。

わたしはお義母さんが弾けてる様子を思い浮かべ、ほっこり
しながら手を振った。

「じゃあ、また来週ですー」

「よろしくー」



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【SS】 制約 (上野千鶴、リドルのマスター) (二) [SS]


予想以上においしいココアにすっかり満足したわたしは、マ
スターにお礼を言った。

「ほんとにおいしいココアでしたー。久しぶりだなー」

「ご自宅では飲まれないんですか?」

「まだ子供が小さいので、ココア作ってる余裕がないんです」

「ははは。じゃあ、今日は息抜きですね」

「はい。お義母さんが、たまには気晴らししないと保たない
よって」

「そりゃそうだ」

家族以外の人とまともに会話したのって、いつ以来かな?

わたしは、おおらかなマスターの雰囲気に安心したんだろう。
まるで、感情をせき止めていたでっかいダムが決壊したみた
いに、愚痴をどおっと吐き出してしまった。

子供はかわいいけれど、自分の時間がまるっきりなくなって、
家に閉じ込められてるみたい。
心の余裕を失って、ストレスのはけ口をどこにも見つけられ
ない。

子供見ててあげるから週に半日くらいは気晴らししなさいっ
ていう義母の提案は嬉しかったけど、だからと言って遊ぶわ
けにはいかないし。
仕事したいけど、そんな週に半日だけのバイトなんかどこに
もない。

愚痴をこぼしているうちに、せっかく暖かいココアで解れた
心が、またささくれ立ってきた。

黙ってうんうんとわたしの愚痴を聞いていたマスターは、思
いがけないことを言い出した。

「うちには、去年まで佐竹さんていう看板娘がいたんだけど
ね。その娘(こ)はここを卒業してしまったんです」

「はい?」

マスターがわたしの話と関係ないことをいきなり言い出した
から、ぎょっとした。

「あ、あの?」

マスターが、店の一角を指差した。


 『女性アルバイト募集 勤務条件は応相談』


「……えと」

「佐竹さんの後で、誰かフルタイムで働ける人が欲しかった
んだけど、バイト代も安いし、無理は言えない。今は、前川
さんと曽田さんていう女性二人でローテしてます」

「でも、週一の半日だけじゃあ……」

「いや、その日を他のバイトさん二人の完全休養日に出来る
から。シフト回すのに、余裕を持てるんですよ」

「今は、その枠をどうされてるんですか?」

「この商店街の床屋の娘さん、高校生なんだけど、その子に
無理を言ってピンチヒッターを頼んでるんです。でも、受験
生だからね」

「あ、そうかあ……」

「半日でもすごく助かるんですよ」

確かに、わたしにとってこれ以上好条件のバイトなんか見つ
かりそうになかった。
わたしが気になったのは、なぜ常にアルバイトさんを入れて
るのか、だ。

店内の雰囲気を見ても、大勢のお客さんで溢れ返ってるって
感じじゃない。
マスター一人でも十分やっていけそうに見えるんだけどなあ。

そう、わたしはがっつり警戒したんだ。

「あの……」

「はい?」

「マスター一人じゃ切り盛り出来ないってこと……なんです
か?」

「そうなんだよね」

少し腰を曲げたマスターが、顔をしかめた。

「僕は前、少林寺をやってたの。そっちで師範の資格を取っ
て食ってくつもりだったんだけど、腰をやっちゃってね」

あっ!

「今は、日常生活には辛うじて支障がないってレベルなんで
す。でも、重いものを持ったり、中腰の姿勢を長時間続けた
りは出来ないんですよ」

「それで、ですか!」

「給仕(サーブ)があるから、僕一人だと半日が限界。どう
しても……ね」

そりゃあ……大変だあ。

「うちはコーヒー、紅茶だけじゃなくて料理も出してるから、
半日でも決して楽じゃありませんよ。それでもいいですか?」

「子供の抱っこして攻撃よりは楽ですよー」

「わははははっ!」

からっと笑ったマスターは、ぐるっと店内を見回しながら言っ
た。

「制約ってのは誰にでもありますよ。僕だって、まさかこん
な制約がかかるなんて思ってもみなかった」

「……」

「でも、それなら制約の中でどうやりくりするかを考えない
とね」

マスターが、空になったわたしのマグカップを指差した。

「うちのココアが他よりいい材料を使ってるってことはない
です。どこにでもある牛乳とココアパウダー、砂糖の組み合
わせ。店の経営コストを考えたら、それしか出来ないです」

「はい」

「それなら、丁寧に作る。心をこめる。僕にはそういう方法
しかないんですよ。自分の手と頭を使うのはタダですから」

「!!」

そっか!

「上野さんも、たった半日っていう制約を、制約のままにし
ないでくださいね」

マスターは目尻を下げて笑った。
でも、それは必ずしも好意の笑いではなかったと思う。

今日は黙って愚痴を聞いてやったけど、他のお客さんに向かっ
てそれを垂れ流したら承知しないぞ!
そういう……どやし、だ。

うん。
わたしは、家庭に入ってからぶったるんでいたんだろう。
主婦や母親としてするべきことは、絶対に手を抜いていない
と思う。
でも意識が甘ったるかったんだ。あの……ココアみたいに。

「がんばります! よろしくお願いします」

「こちらこそ。じゃあ、早速仕事の説明をします」

わたしがバイトを承けた途端に、マスターの口調ががらっと
変わった。

マスターにかかっているのと同じ制約。
わたしは、接客の技量でそれを乗り越えないとならない。

椅子から飛び降りて、カウンターの向こうに移動した途端に。
店内にいたお客さんの視線が、一斉にわたしに向けられた。

お客さんに笑顔で接すること。
わたしが店員をしていた時に、最初に叩き込まれたこと。
思い出そう。基本中の基本だ。

「上野です。よろしくお願いします!」

まだぎごちない笑顔だったけど、お客さんはみんな頷いてく
れた。

よーし! がんばるぞー!




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【SS】 制約 (上野千鶴、リドルのマスター) (一) [SS]


「ほんとにわたしでいいんですか?」

わたしは、マスターに何度も確認した。
マスターが提示してくれたのは、わたしには夢のような好条
件だったけど、本当にそれでいいのかが信じられなかったか
らだ。

「いや、僕の出した条件で承けてくれるなら、本当に助かり
ます」


           −=*=−


二人目の子供が生まれてから、それまでの生活が一変した。
朝から晩まで育児と家事で振り回され続け、子供一人の時は
なんだかんだでまだ確保できていた自分の時間が、まるっき
りなくなった。

自分はのんびり屋だから、このくらいのストレスは平気よ。
夫にも親にもそう言って安心させてたけど、平気だっていう
ポーズすら取れなくなっていた自分の心の危うさに……愕然
とした。

家に閉じ込められたまま、ストレスのはけ口がどこにも見つ
けられない。
ストレスが爆発して、自分の子供に鬱憤をぶつけてしまうん
じゃないかって……すっごい怖かった。
わたしは、ぎりぎりまで追い詰められていたんだ。

お義母さんが、そんなわたしの窮状を一早く察してくれた。

「子供たちは見ててあげるから、週に半日くらいは外でしっ
かり気晴らししなさいな」

そう……提案してくれた。
わたしは本当にラッキーだったんだろう。

子供たちがいなくても、家事はしないとならない。
わたしがずっと家にいると、結局体も心も休まらない。
だから、お義母さんの申し出は本当に嬉しかった。

でも、ただお茶するとか買い物するとかだと、結局家のこと
が気になってしまう。
それに、子供をほっぽらかして自分だけが遊んでいるように
思えて、気軽に友達を誘えない。

全然気晴らしに……ならないんだ。

働きたい。
それは、お金のためじゃない。
わたしの気持ちを、家や子供のことからぱちんと切り替える
ためだ。

独身時代はずっと店員をやってて、接客には慣れてる。
接客している間は、お客さんに意識を集中出来るんだ。
他に何も考えなくて済む。
そういう時間が欲しい。どうしても欲しい!

でも、週に一回だけ、それも半日だけの勤務なんて、いくら
パートだって言ってもありえないでしょ。
せっかくお義母さんが提案してくれた息抜きが、空振りに終
わるかもしれない。目の前にチャンスがあるのに……。
わたしは、また追い詰められてしまったの。

そんな、世の中わたしに都合良くは出来てないよね……。
意気消沈したわたしがふらっと入った喫茶店。
そこが……リドルだった。

普段食料品とかを買い物する時には、大型スーパーに行くこ
との方がずっと多い。
でもわたしは、昔からの商店街で買い物するのが好きだった。
値段とかそういうことじゃなくて、人と人とが直接触れ合う
機会が必ずあるから。

魚屋の元気なお兄さん。
八百屋の強引なおじさん。
肉屋の仲のいい年配のご夫婦。
他愛ない会話であっても、そこで言葉をやり取りする楽しさ
があった。

そして、商店街のアーケードの中は車がほとんど通らなかっ
た。
子供連れで安心して歩けるっていうことも、わたしには嬉し
かったんだ。

リドルは、その商店街の中にある喫茶店。
前から気にはなってたけど、子供連れじゃ入れない。

でも、そこに興味があったからっていうことじゃなく。
わたしは、どこでもいいから逃げ込みたかったんだろう。



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ドアを引いたら、ドアベルがちりりんと鳴って、その音にび
くっとした。

薄暗い店内には年配のお客さんが何人かいて、各々コーヒー
や紅茶を飲みながら新聞に目を通したり、本を読んだりして
る。入ってきたわたしを見る人は誰もいない。

ボックス席を一人で占有するのはあれかなあと思って、カウ
ンターの椅子に腰を下ろした。

「いらっしゃいませー」

マスターは、わたしよりかは年上っぽい、でも中年というに
はまだ若い男の人。
微笑を浮かべながら、サイフォンを組み立てていた。

「何にいたしましょうか?」

「ええと……ココア、出来ます?」

「大丈夫ですよ。ミルクとお砂糖はどうなさいますか?」

え?

「いえ、甘いのがお好きな方、あっさりがいいとおっしゃる
方、いろいろおられるので」

うわ……すごおい。
ちゃんと好みに調整してくれるんだあ。
わたしは、それでいっぺんにこのお店が好きになった。

「じゃあ、甘め、濃いめでお願いできます?」

「かしこまりました」

年季の入ったミルクパンに特濃牛乳が注がれ、コンロの細い
火でゆっくりと温められた。
大きめのマグカップにきび糖とココアパウダーを量り取った
マスターはスプーンで掬った牛乳を垂らして、それをしっか
り練り上げた。

牛乳に膜が張らないうちに鍋をコンロから下ろしたマスター
は、慎重にマグの中のココアペーストを溶き伸ばしていく。

手間が味の違いに出るコーヒーや紅茶とは違う。
たかが、ココアじゃないか。
ココアパウダーと砂糖とホットミルクを入れてがちゃがちゃ
かき回すだけでもココアは出来る。

でも、マスターはそうしなかった。
丁寧に、丁寧に、一杯のココアを作り上げた。

「お待たせいたしました。ゆっくり温まっていってください
ね」

「ありがとうございます」

その一杯のココアは。
かちかちに張り詰めていた心を緩めてくれるくらい、暖かく
てほっとする味だった。

 

 


【SS】 俺様 (曽田真弓、リドルのマスター) (三) [SS]


なんか、わたしがすごくわがまま勝手な人間だと決めつけら
れているような気がして不愉快だった。

「あの……」

「はい?」

「佐竹さんは……そうしてたんですか?」

「あはは」

マスターが苦笑した。

「みこちんは、どこまでも俺様だからね。一目見ただけで機
嫌がいいか悪いか分かる。客より偉い」

どてっ。な、なんつーか……。それでいいの?

「でもね、みこちんは戸を閉めないんだ。常時開けっ放しな
んだよ。それだけじゃない。人の戸を、壊してでも開けに行
くの。おせっかいで姉御肌」

あ!

「曽田さんは、みこちんをよく知らないから愚痴をこぼした
んでしょ? もしもう少し付き合いが深くなったら。相手が
見えて来たら。オブラートに包んだんじゃない?」

う……図星……だ。

「人によって自分の戸の開け閉めをがらっと変えちゃうって
ことは、周囲から見てなんだかなあと思われちゃうの。特に、
こういう客商売だとね」

「は……い」

「それなら、これこれこういう時には戸を閉めちゃうぞーっ
て自分から宣言しちゃった方がいい。俺様の部分は、最初か
ら見えてた方が分かりやすいの」

そ、そんな。

「でも、それをすぐやれっていうのは難しいよ。どこまでも
あけすけってのは、みこちんだから出来ること」

「はい」

「それなら、自分の戸を閉めちゃう前に、あなたの戸を開け
させてくださいって努力する方が、まだ楽でしょ?」

あ、そういうことか。
マスターのたとえは、すとんと納得出来るものだった。

わたしの表情の変化をじーっと見ていたマスターは、カウン
ターテーブルをぽんと叩いて、さっと立ち上がった。

「うちには飛び込みのお客さんは滅多に来ません。常連さん
ばかりです」

「そうなんですか」

「商店街の中の店だからね」

そっか。

「曽田さんは、ああいつものお客さんかで済ますんじゃなく
て、そういう常連さんの戸をちゃんと開けてくださいね」

「……はい」

「そうしたら、あなたの戸も必ず開けてもらえますから」


           −=*=−


あんたは隠れ俺様。
後で、佐竹さんからずばっと言われた。

良し悪しじゃないよ。
見え見えでも隠れてても、俺様は俺様なの。
そういうキャラなんだって、自覚するしかないでしょ。

……返す言葉がなかった。

わたしが何を言ったって、したって、それで何が変わるわけ
でもない。
俺様のわたしは、さっさと自分の戸を閉めてしまったんだ。
順番が……逆だったね。

マスターや佐竹さんのアドバイスを受けて、わたしは常連さ
んの戸を開けようって決意したけど、その必要なんか何もな
かった。
新人のわたしに興味津々の常連さんたちが、無遠慮にわたし
の戸を開けようとしたからだ。

あはは、マスター。確かに楽ちんだわ。
これじゃあ、わたしが戸を閉めない限り楽勝じゃないの。

でも。
リドルでのわたしは、俺様になる必要がない。
戸を閉める必要がないんだ。

そして、リドルはわたしが居るべき場所じゃない。
ここは……わたしの場所じゃ……ない。

じゃあ、わたしはどこに行けばいいの?



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「曽田さん、そろそろ上がりにしよう」

「はあい」

最後の常連さんが、ごっそさんと言い残して店を出た後、マ
スターは入り口ドアを施錠しに行った。
わたしは椅子を寄せて床を拭ける状態にする。

今日も、答えは出なかったな……。

「マスター」

「うん?」

「俺様っていうのは……まずいんですかねえ」

「それを、俺様の俺に聞くなよ」

マスターが、おいおいって感じで苦笑いした。

ええー? うそお! マスターが俺様あ?

「会社勤めすんのが嫌で、こういう店やることにしたんだか
らさ」

「ああ、そうかあ」

「みこちんの方が、俺様に見えてそうでもない。仕事での役
回りはわきまえてて、きちんとチームプレイをこなしてるか
らね」

「そうですよね」

「まあ、モチベーションをどうこさえるかの問題じゃないか
と思うけどね。だって、指図しなくても動くのは……」

マスターが、わたしを見てにやっと笑った。

「いつでも、俺様だけだからさ」

 

 


【SS】 俺様 (曽田真弓、リドルのマスター) (二) [SS]


わたしがリドルでバイトすることになったきっかけ。
それは、ひょんなことからだった。

会社を辞めて抜け殻みたいになってたわたしは、すぐに次の
仕事を探す意欲が湧かなくて、住んでたアパートを引き払っ
て実家に帰った。

家に戻ったところで、何かすることがあるわけじゃない。
親はいい顔しないし、わたしもどこかで踏ん切りを付けて次
の行動を起こさなきゃとは思ってた。

でも、会社という集団から弾き出されてしまったわたしには、
致命的な欠陥があるのかもしれない。
それが何かが全然分からなかったわたしは、完全に腰が引け
てしまったんだ。

少しだけ。もう少しだけ猶予が欲しい。
わたしは学生の時にちょこっとだけ習っていたウクレレを気
晴らしに弾いてみようと思って、錆びちゃってた弦を張り替
えるのに楽器店に行ったんだ。
そこで……レジにいた佐竹さんていう若い女性店員さんと仲
良くなったの。すっごい話しやすい、気さくな人だったから。

大学を中退して、その後三年半くらいフリーターをやって、
いつまでもフリーターじゃなあって、ここに就職した。
佐竹さんは、そう言った。

でも佐竹さんは、フリーターをしてたってことが信じられな
いくらい、しゃっきしゃき。
きびきびしてて、明るくて、冗談好きで。
まだお店で働き始めてそんなに経ってないはずなのに、他の
スタッフの人たちとすごく打ち解けていた。

そこに……わたしはちくりと痛みを感じたんだ。

わたしは、自分の欠陥に気付かなかったんじゃない。
それを考えたくなかっただけ。

同じセクションに苦手な人が何人かいて。
わたしは、その人たちとどうしてもうまくコミュニケーショ
ンが取れなかった。
陰口叩いたりとか露骨に嫌悪感を示したりとか、そういうこ
とはしなかったつもりなんだけど……わたしの苦手意識は以
心伝心で相手に伝わっていたんだろう。

そこから。
その小さな亀裂から、わたしの破滅が始まっていたんだ。

互いに距離を置く。
個人的な付き合いの場合ならそれはオトナな対応で、ちゃん
と機能するんだろう。でも仕事ならそうは行かない、

チームワークや役割分担がきちんと求められる職場でメンバー
間の連携が切れてしまうと、すぐに致命傷になる。
そして、緊張関係の要の部分にわたしが居た。

……そういうこと。

わたしがこのまま次の職に就いたら、また同じ失敗を繰り返
すんじゃないだろうか。それは……底なしの恐怖に近かった
んだ。
わたしは、その悩みを黙って抱えていられなかった。

佐竹さんとは知り合ったばかり。何の利害関係もない。
わたしは、そこで洗いざらいゲロしたんだよね。
そしたら、佐竹さんが意外なことを言った。

「わたしのはさあ。フリーターって言うよりリハビリだった
んだよね。曽田さんにも、それ必要なんちゃう?」

リハビリ……かあ。

佐竹さんはわたしに、佐竹さんが前に働いていたリドルとい
う喫茶店でアルバイトすることを勧めてくれた。
後釜はまだフィックスされてないはず。マスターは多分喜ん
で雇ってくれるよって。

正直、バイトするなら人とあまり顔を合わせないタイプの仕
事にしたかった。
でも、佐竹さんがリハビリが必要って言ったことが気になっ
たんだ。

わたしは思い切ってリドルに電話して、バイトをさせてもら
えませんかってマスターにお願いしてみた。
そうしたら、面接したいのでお店まで来ていただけませんか
と、丁寧な返事。

いつまでもうだうだ考え込んでいたってしょうがないよね。
わたしは……思い切ってトライしてみることにしたんだ。




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閉店後の喫茶店。
マスターが淹れてくれた一杯のコーヒーを挟んで、面接が始
まった。

「曽田さんは、こういう給仕とか店員さんとかのバイトや仕
事の経験がありますか?」

「いえ……学生時代は親がバイトを許してくれなかったので」

「そうですか。じゃあ、そこからかな」

温厚で優しげなマスターが、わたしの差し出した履歴書に素
早く目を通してから、すぐに返してくれた。
間髪を入れずに、マスターが話し始めた。

「ええとね。ウエイトレスっていう仕事は、ものすごーく簡
単で楽です」

「は?」

「でも、同時にものすごーく厄介で、しんどい仕事なんです
よ」

マスターの目は、笑ってるみたいに見えて、笑っていなかっ
た。

「僕の仕事も含めて、飲食業はサービス業です。お客さんは
店を選べますが、店はお客さんを選べません」

「……そうですね」

「いろんなタイプのお客さんが来ます。全員が、あなたに好
意的なわけじゃありません」

「……」

「あなたが苦手な、嫌いなお客さんが来ても、帰れって言え
ません。いいですか?」

「はい」

「人間ですから、感情にでこぼこがあるのは当たり前です」

「ええ」

「でも、それをお客さんに押し付けたら、あなたがそれだけ
の人間だって思われるんですよ」

「……」

「何もかも我慢しろとは言いませんが、あなたの戸は最後に
閉めてくださいね」

「どういう……ことですか?」

「その分、お客さんの戸を開ける努力をしてください。それ
が僕のオーダーです」