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三年生編 第53話(10) [小説]

僕の言葉を森本先生が引き取った。

「弓削さんはね。社会生活に必要な知識や交渉能力、判断力
が全然足りないの」

「亡くなった母親の過度の束縛。その後の男たちが彼女をモ
ノとして扱い、家に閉じ込めたこと」

「弓削さんの最も近くにいた人たちが全員支配者で、彼女に
自由を与えなかった。だから自分の正しいポジショニングが
出来ない。いつも自分を最下位に置いちゃうの」

「それじゃあ学校に行く機会があっても、誰とも普通に話が
出来ない。学年が上がるたびに話についていけなくなる。相
槌しか打てなくなる。コミュニケーションが成り立たないか
ら、当然放置されるわね。集団に溶けこめない」

「親からも先生からも友達からも放置されたら、学校なんか
何も意味ないわ。教育放棄ね。弓削さんの学力レベルは、実
質小学校低学年くらいだと思う」

市の二人の職員さんが、絶句して弓削さんの顔を見つめた。

「それで彼女が破綻しなかったのは、家にずっといたから。
家で誰かに押し付けられた簡単な家事や作業さえこなせば、
なんとか生きていける。それには学力やコミュニケーション
能力は特に必要ないもの」

「彼女はそうやって生きてきて、それしか出来ないの。指示
待ちのロボットなのよ。そんな彼女を働かせるだって? 
はっ! 何バカなこと言ってんのよ!」

さっきから自分のことを言われているのに、それに反応しな
いでぼーっとしてる弓削さん。
生野さんも綾里さんもそれを見て、やっと弓削さんの抱えて
いる深刻な問題を認識したみたい。

「生野さん、綾里さん」

森本先生が、本題を切り出した。

「私はね。何はともあれ彼女には治療が必要だと思ってます。
でもね、それがすっごい難しいの」

「どうしてですか?」

「最終的な自立に向けて社会性を鍛えていくには、自発性と
コミュニケーション能力を上げないとならない。それを身に
つけさせるには、グループホームのような同じ年齢の子たち
と共同生活して、そこでのやり取りで覚えるのが一番望まし
いの。でも……どう見ても無理でしょ?」

「あ、そういうことですね」

「学力レベルが違い過ぎる上に、自己主張が全く出来ないん
じゃ、最初から話にならない。かと言って、後見人やカウン
セラーとのマンツーマンじゃいつまで経っても社会性が育た
ない。その人への依存が表に出るだけ。支配者が入れ替わる
だけよ」

「……」

「だから、さっき浅田さんが言った後見人を決めてその人に
ケア委託ってのは出来ないの。その人には相当高度なスキル
が必要になる。ボランタリーでお願いするには負担が重すぎ
るの」

「うーん……」

生野さんと綾里さんが、腕組みしてうなっちゃった。

「そっかあ」

「大変だあ」

「最初っから、そう言ってますっ!」

結局、森本先生がぶち切れた。
うー。僕が代弁した意味ないじゃんか。
気持ちはよーく分かるけどさ。

「私が見てきた子の中でも、もっともケアの難しい子なの!」

「分かりました」

生野さんがすっと立ち上がった。

「申し訳ありません。当方の段取りが至りませんで、ご迷惑
をおかけしました。グラナーダさんの方で、お医者さまによ
る弓削さんの診断等はされたんですよね?」

「しましたよ」

「差し支えなければ、その資料等も参考にさせていただいて、
急ぎケアプランをいくつか策定いたします。あくまでもまだ
プランということで、改めてご助言をいただければと思いま
すが、それでよろしいでしょうか?」

「急いでくださいね。猶予はそんなにありません。非常に切
羽詰まってます」

「重々承知しております、申し訳ありません」

話し合いにも意見交換にもならない不毛な一時間が過ぎて。
全員疲労困憊で解散になった。

 


三年生編 第53話(9) [小説]

だあああっ。
一同思わず脱力。

あれで給料もらえるのかよ。がっかり。

「あの……」

さっき、おっさんに耳打ちした生野っていう女の人が起立し
て発言した。

「大変申し上げにくいことなんですが、私どもの方にまで弓
削さんの聞き取り資料が届いていないんです」

がたがたがたっ!
グラナーダの人たちと長友さんが一斉にずっこけた。

「おいおいおいおいおい」

「申し訳ありません。主事が全部書類を抱え込んでおりまし
て、正直業務がひどく滞っていたので……」

森本先生が、ずばっと切り込む。

「勘弁してください。だからと言って、私たちにその尻拭い
を押し付けるのは言語道断じゃないですか!」

「申し訳ありません」

生野さんが、深々と頭を下げた。

「恥を承知で伺います。浅田のプランにどのような不都合が
あるのかを教えていただけないでしょうか?」

「あのー、いいですか?」

発言を求める。

「どうぞ」

「生野さんは、今の印象でいいので、弓削さんにどういう印
象を持たれます?」

そう。
資料なんかなくても、この場で分かるじゃん。

「確かに……工藤さんがおっしゃられたように、私どもも違
和感を……」

「ですよね? 自分のことでこれだけ揉めてるのに、弓削さ
んずーっとぽけっとしてる。ねえ、弓削さん!」

「え?」

ずっと落ち着きなくきょろきょろしてた弓削さんが、そこで
初めて我に返った。

「……なんですか?」

市の担当の人が、二人ともさっと顔色を変えた。

「ちょ、ちょっと」

「あなた……」

思わず苦笑しちゃった。

「あの、生野さん、綾里さん」

「はい?」

「弓削さんに、お使いを頼んでみてください。今会議室にい
るのは全部で九人。百円のペット茶を一人一本ずつ。千円札
でお釣りもらってって」

「……」

生野さんと綾里さんが、互いに顔を見合わせた。

「あの……それに何の意味があるんですか?」

今度は弓削さんに聞いてみる。

「弓削さん、今の買い物出来る?」

「ええと。百円のお茶を九本ですか?」

「うん」

「いくらいるんですか?」

「あっ!!」

生野さんと綾里さん。揃って絶句。

「さっきの僕と浅田さんのやり取りも、弓削さんには難しく
て全然分かんない。だから、理解出来ない問いかけにはとり
あえずイエスっていうしかない。それでいいですって言うし
かない」

「……」

「僕のところに来た時もそう。僕は難しいこと言ったつもり
はないんだけど、それがあんまり理解出来てない」

「知能が……」

「いや、きちんと学校に行けてないから。それが一番大きい
んじゃないかと。そして」

「はい」

「好奇心がうんと少ない。自分に直接投げかけられた強い命
令しか聞かない。あとはぜえんぶスルーしちゃってる」

「それと、自己主張が全くない。喜怒哀楽が全く出て来ない。
一緒にいたら、不気味で不気味でしょうがないです」

「……」

「指示の内容をきちんと理解出来ないのに、誰の問いかけや
働きかけにもうんと言ってしまう。それに応えようとしてし
まう。そんな状態で働きに出たらどうなります?」

「……」

二人が力なく肩を落として、ふうっと溜息をついた。

「そうですね」

「働くなんて論外ですよ。僕みたいなど素人にも無理だって
ことは分かります」

 



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三年生編 第53話(8) [小説]

高校生の僕に真っ直ぐ突っ込まれて、血が上ったんだろう。
浅田さんが叫んだ。

「余計なお世話だ!」

「ほら。その程度にしか考えていないんでしょ?」

しゃらが、ぐっと両拳を握った。
僕がキレると言ったわけ。それが分かったからだろう。

市の人は他にもいるけど、この主事の浅田っていう人がガン
なんだろう。他の人はこの人ほど横柄には見えない。
僕は、このおっさんだけは絶対に許せなかった。

「ねえ、浅田さん。福祉って、何のためにあるんですか?
高校生の僕にも分かるように教えてくださいよ」

「……」

黙り込んでしまったおっさん。

「僕も彼女も、これまでいろんな目にあってます。でも、そ
の時に、福祉の『ふ』の字も聞いたことがありません。困っ
てた僕らの身を案じてくれたのは、五条さんをはじめとする
警察の方と、森本先生のようなほんの一握りの先生だけ。行
政なんか、なーんもしてくれない。なんもあてにならなかっ
たんです」

「それが怠慢だなんて言いませんよ。僕らが福祉関係の人た
ちに助けてくれって言わなきゃ分からない、動けない、そう
いうシステムになっているんでしょうから。その代わり、も
しそういう事態になったら真剣にやって欲しい。お役所仕事
でてきとーにやるんでなしに」

「俺らが適当にやってるって言うのかっ!」

私じゃなくて、俺になっちゃったよ。
だめだ。このおっさん。論外。

「てきとーです。今の弓削さんの状態が、先ほど浅田さんが
おっしゃられたケアプランにまるっきり合ってないってこと
は、ど素人の僕にも分かりますから」

「部外者が余計な口を利くな!」

「じゃあ、浅田さんも部外者ですね」

「な、なにぃ!?」

「やる気ないんでしょ? じゃあ部外者じゃないですか」

僕の扇動が過激になったことで、グラナーダの人たちが青く
なってきた。

でも、徹底的に膿を出さないと先に進まない。

「こ、こいつ」

「いいですか? 浅田さんの代わりはいくらでもいるんです。
もっとまじめに、ちゃんと考えてくれる人がね」

「おまえになんでそんなことを言われんとならん!」

「はあ……」

もう溜息しか出ない。

「もう一度聞きます、弓削さんの件をまじめに考える気があ
るんですか?」

「そんなことを、なんでおまえに……」

「分かりました。押し問答になるので、これで止めます。で
すが……」

僕は隣にいるしゃらを見下ろした。

「御園さんは中学の時に、前の市長の息子に命に関わりかね
ないいじめを受けました。そのいじめは彼女だけでなく、ご
両親の商売を廃業させてしまうほど深刻なものだった。権力
者の暴力の被害者なんです。そして前の市長は収賄で捕まっ
て失職しましたよね?」

「それがどうした」

「今の市長さんは、清廉を公約にしていると伺っています。
市長さんに直接苦情を申し立てます。福祉課の浅田っていう
人は、まじめに仕事をしていないって」

「ほほう」

そんな高校生の言うようなざれごとを、市長がまともに取る
はずがない。そう思ったんだろう。浅田って人が鼻で笑った。

「もちろん、高校生のガキの僕がちょこっと苦情言ったり、
意見を受け付けるコーナーに書き込んだところで、何の意味
もないことは分かってますよ」

「ふん」

「でもね、僕は実効が欲しいです。だから、伯母を通して苦
情申し立てをさせてもらいます」

「はっ! 誰がやっても同じさ」

あざ笑う浅田さん。

「そうですか? 僕の伯母は、万谷コンツェルンの総裁だっ
た、万谷巴ですが」

ぴきっ。おっさんの顔が一瞬で引きつった。

「伯母はもう事業からは引退していますが、福祉にはとても
熱心です。今、家庭の事情を抱えた高校生や大学生の女の子
三人と共同生活してるんですよ。それこそ、彼女たちには何
の義理もないのに」

「……」

「もちろん、本来積極的に動かなければならない市の福祉関
係者が事態を放置してるなんて聞いたら、激怒するでしょう
ねえ……」

しみじみ。

「そ……」

どう言い返したらいいか分からなくなったんだろう。
おっさんは、絶句したまま固まった。

「とりあえず、やる気がないなら退席してもらえませんか? 
部外者の僕らでさえ、なんとかしなきゃと思ってるんです。
まじめに考えてくれないのなら、いくら福祉課の人でも部外
者と同じです。じゃまですから」

真っ青になったおっさんは、椅子にへたり込んで動かない。

「どうなんですか? 浅田さん?」

「……」

「弓削さんのケアに責任を持たないとならない、一番近いと
ころにいる人がそれじゃ、森本先生や長友さんがいくら親身
になってもケア出来ませんよ。最初に所長さんがそう言われ
ましたよね?」

「……」

「まじめに考えてないんでしょ? そんな人、要らないです。
話し合いのじゃまです。出てってください」

僕は、あくまでも淡々と話をした。
ここで沢渡校長とやりあった時みたいにぶち切れたってしょ
うがないもの。

浅田って人の様子を見かねて、隣に座っていた若い女の人が
おっさんに何か耳打ちをした。
それから、すうっと立って発言した。

「浅田が、みなさんに失礼な発言をいたしましたことを深く
お詫びいたします。それと、浅田はこの後所用がございまし
て、申し訳ありませんがこれで退席させていただきます」

「打ち合わせにつきましては、引き続きわたくし生野(いく
の)と綾里(あやさと)があたりますので、どうぞよろしく
お願いいたします」

ばっ!
席を飛び出したおっさんが、逃げるように部屋を。

……飛び出していった。

 


三年生編 第53話(7) [小説]

はあ……。やっぱりか。
この人たち、檻の中には一度も入ったことがないんだろう。
自分が弓削さんの立場にいなければ、いや、もしそうなって
も、きっと分かんないんだろうなあ。

そんなの絶対に無理っていう森本先生の反発を、鼻先でせせ
ら笑ったんだろう。
森本先生の額に、でっかい血管がぶりぶり浮いてるもん。
長友さんも、呆れたを通り越して怒りモードに入ってる。

でもここで長友さんや森本先生がぶち切れてしまうと、じゃ
あおまえらで全部やれよって放り出される。
しかもぷっつんした反動で、弓削さんがケア側の誰にも頭が
上がらなくなっちゃう。それでなくても誰かに隷属しやすい
んだから。

じゃあ、ぶちかますか。

「あの……」

挙手して、みんなの注目を集める。

どう攻めようかとうなっていた森本先生が、もうやるのって
感じで僕の方を振り返った。

「発言。いいですか?」

最初に挨拶した所長さんらしき女の人が、僕にマイクを持っ
てきた。

「どうぞ」

森本先生から、僕のことは聞いていたんだろう。

マイクを持って、立つ。

「すいません。僕は工藤樹生と言います。田貫第一高校の三
年です。僕はこの件に関しては部外者なので、何か言える立
場じゃないんですが……」

「弓削さんを連れてきたのが、僕の彼女のお兄さん、御園則
弘さんなので、まるっきりの無関係というわけでもありませ
ん」

「本来なら、弓削さんを連れ回した則弘さんがこの件に関し
てちゃんと事情説明をしなければならないんです。でも、則
弘さんはまだ警察の事情聴取が済んでいないので、この場に
は来れないんです」

ざわざわざわっ。
場がざわついた。

「それで妹である沙良さんが、お兄さんの代理ということで
ここに来ています」

しょぼんとしたしゃらが、小さく頭を下げた。

「則弘さんは、七年前にある事件に巻き込まれて行方不明に
なっていて、今までずっと音信不通でした。ですので沙良さ
んも、この件が一体どうなっているのかよく分かっていませ
ん。まず、それをご了承ください」

「則弘さんが連れてきたんだから、則弘さんに扶養義務があ
る。確かにその通りなんですが、そもそも則弘さんも弓削さ
んも、田中耕七郎という人の居候でした。則弘さんと弓削さ
んの間には、特別の関係も感情もないんです」

「田中という人が殺人事件の容疑者として逮捕されて刑務所
に入ってしまい、その人に弓削さんの世話を押し付けられた
お兄さんが切羽詰まって、弓削さんを連れて実家に転がり込
もうとした。全てはそこから始まってます」

浅田っておっさんは、僕の話なんかまじめに聞く気がないん
だろう。踏ん反り返って鼻をほじってる。
態度悪いなあ。あんなのが福祉に関わることが出来るの?

「則弘さんは、田中という人に一方的に押し付けられた弓削
さんのケアをする気はありません。もしその気があったとし
ても、則弘さんが住所不定無職じゃあ……」

しゃらがこそっと顔を伏せた。
とてもじゃないけど、しゃらの口から直接言えるようなこと
じゃないよね。

「そして、彼女の家は今家業の理髪店が改装中で、その間収
入がないんです。仮住まいのアパートも狭くてぎちぎちです
から、弓削さんと赤ちゃんを引き受ける余裕は全くありませ
ん」

「つまり、弓削さんを連れていた則弘さんを含め、御園さん
のご一家には弓削さんのケアをする義理もなければ、余裕も
ないんです。まず、それを僕の方から説明しておきます。で
も」

ぐるっと、部屋にいる人たちを見回す。

「これまで僕も彼女も、森本先生や五条さんには本当にお世
話になってきました。だから僕らも、他人だから知らないっ
ていうことにはしたくないんです。僕らの出来ることなら、
少しでもお手伝いしたいんです」

「それで、部外者ではあるんですが、今日ここにお邪魔しま
した」

ぺこり。

最初に事情説明をして、と。

「それで、ですね。ええと、浅田さん」

「なに?」

相手が高校生の僕だと、急に横柄になる。あー、やだやだ。

「弓削さんから聞き取りされたとおっしゃいましたけど、本
当ですか?」

「したよ」

「どのくらいの時間、聞き取りされたんですか?」

「さあ」

「本当は、してませんよね?」

「なに!?」

僕の挑発にいきり立って、おっさんが大声を出した。

「僕は五条さんに頼まれて、おとつい御園さんと一緒に弓削
さんに会って話をしてるんですよ」

「……」

「弓削さんと話したのは、五分くらい。それ以上話しても無
駄だと思って切り上げてます。高校生の僕や御園さんでも、
弓削さんの今の状態がすっごくヤバいってことはすぐに分か
るんです」

「……」

「きちんと聞き取りをしているなら、それに気付かないはず
ないです。形式的な聞き取りしかしてないか、そもそも聞き
取りを浅田さん自身がしてない。ただ誰かの報告を斜め読み
してるだけ。違いますか?」

「なんで、あんたにそんなことを言われないといかん!」

「人の一生に関わることだからですよ」

 



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てぃくる 301 本物と偽物 [てぃくる]


bara.jpg



鉄条網の棘は、薔薇ではない。
咲き切れず、乾いて萎れた薔薇は美しくない。
湧き上がる雲は、冬らしくない。


では。


棘は偽物か?  本物だ。触れれば君を傷つける。
薔薇は偽物か? 本物だ。美醜は真偽には関係しない。
雲は偽物か?  本物だ。それがどのような色形であっても。


そして、彼らは君に問う。
君は、間違いなく本物なのか、と。
本当は、偽物ではないのか、と。








 寒さで傷む冬薔薇
 造花の方が美しいわと君は云う
 ああそうだな
 君よりマネキンの方が美しい









False Alarm by Becky Hill & Matoma

 

 


三年生編 第53話(6) [小説]

建物の入り口にはなんかの果実のマーク。
ええと、施設の名前は……グラナーダか。

うん?
どっかで……聞いたことあるぞ。

僕がそのマークの前でうんうんうなっていたら、しゃらにば
しんと尻をどやされた。

「ちょっと! 何ぼさっとしてんのっ!」

「う、ごめん」

慌てて建物の中に入る。

「ごめんね、こんな大雨降りの時にわざわざ来てもらって」

おおおっ! だ、だれっ!?
一年会わなかった間に、森本先生は一回り大きくバージョン
アップしていた。

「ごわあ……」

ぴきぴきっと額に血管を浮き出させた森本先生が、僕にいき
なり突っ込みを入れた。

「工藤くん、私が太ったと思ったんでしょ?」

「えーん、それを僕に言わせるんすかあ?」

「そういう顔してるよ。ったく!」

くるっとしゃらの方に振り向いた森本先生が、今度はしゃら
をいじった。

「御園さんも、だいぶ肉付いたね」

とほほ。肉付いたって。ブロイラーじゃないんすから。
でも、しゃら的には嬉しかったらしい。

「はい! 合気道もずっと続けてるし、背も伸びたから」

「うん。すっかり女の子らしくなったよ。前はほんとにがり
がりだったからねえ」

「ううう」

養護の先生だった森本先生としては、健康状態のチェックは
外せないんだろう。

「さて」

でも、気楽に冗談をぶちまかせていられたのは、そのほんの
一瞬だけだった。
森本先生は顔を強張らせ、廊下の奥の会議室らしき部屋を指
差した。

「すぐに始まる。出席者は円卓式に配置してるけど、工藤く
んと御園さんは、その外ね。後ろにパイプ椅子並べてあるか
ら、そこに座ってて」

「はい」

「分かりました」

玄関先でぐしょぐしょのレインコートを脱いだ僕らは、タオ
ルを借りて濡れた髪と手を拭いて、会議室に入った。

「げ……」

部屋の中の雰囲気が……異様だった。
最初から、森本先生や長友さんと県の職員さんらしい男の人
との間で火花が散っていて、当事者の弓削さんだけが、その
空気を読めずにきょろきょろしてる。

「みなさん、お揃いになりましたので、ミーティングを始め
させていただきます」

森本先生よりはだいぶ年配の女の人が、立ち上がって開会の
挨拶をした。

「この度、弓削佐保さんという女の子の今後のケアに関しま
して、田貫署の五条さんからのご相談がございました」

「私どもと致しましては、これまで同様に市の福祉課のみな
さんのご指導を頂戴し、彼女の中、長期のケアと自立支援を
お手伝いしようと考えていたんですが、どうしても私どもと
福祉課のみなさんとのご意見がかみ合いません」

「私どもの立場といたしましては、市からの委託を受けて子
供たちのケアプランを立てるという流れを逸脱出来ませんの
で、こうして改めて話し合いの機会を設けました。これを機
に、よりよいプラン策定に繋げて参りたいと思います」

「限られた時間ではございますが、情報をしっかり共有し、
有意義なミーティングにいたしたいと思いますので、みなさ
まご協力のほど、よろしくお願いいたします」

「それでは、福祉課主事の浅田さま。お手数ではありますが、
現段階でのケアの方針を、改めてご説明いただけないでしょ
うか?」

何度同じことを言わせるんだというような、うんざり感爆裂
の様子で、小太りのおっさんがのそっと立ち上がった。

「主事の浅田です。田貫署の長友さん、五条さんには、日頃
から青少年指導の面でなにかとお世話になっております」

それは、言っていることだけ聞けば感謝に聞こえるけど、皮
肉っぽい薄笑いを浮かべたおっさんは、実際にはそんなこと
これっぽっちも思っていないんだろう。
あんた方が余計なことをするから俺たちの仕事が増えるんだ
よ……そんな感じ爆裂。むかむかするわ。

「また、こちらのグラナーダのみなさんには、子供たちのサ
ポート、ケアプラン策定の面でいつもお世話になっておりま
す」

おっさん、そっぽ向いて言うなよ。

「私どもでは、こちらの弓削さんに聞き取り調査を行い、ご
両親がすでにおられないこと、生まれたばかりのお子さんを
お持ちであること、就労の意思があり、生活規範もきちんと
守れることを確認させていただきました」

これだよ。どこに目ん玉付けてんだ、このおっさん。
森本先生も、よくぶち切れなかったなあ。

「十六歳という年齢を鑑み、本来であれば児童福祉施設でし
ばらくお預かりして、その間に就労先を斡旋するという流れ
になるのですが」

出来っこないって。

「赤ちゃんの世話があるので、施設への入居は遠慮したいと
ご本人から申し出がありました。ですので、後見人を選定し
て、彼女の住居の確保、職の斡旋、それにかかる手続きの代
行と日常生活の補助をお願いするつもりでおります。以上で
す」

 


三年生編 第53話(5) [小説]

雨の勢いはちっとも弱まらない。
地面を叩いたしぶきがあちこちにはねて、そこがもやっと白
く見えるようなひどい降り方だ。
格好悪いけど、雨合羽と長靴で完全防備して行かないとなあ。

玄関先でのたのた準備をしていたら、母さんからきっちり突っ
込みが入った。

「この雨の中、わざわざお出かけ?」

「そう。例のやつさ」

「まー。まあだ引っ張ってたの?」

「好きでそうしてるわけじゃないよ。五条さんは出産前で動
けないし、今度は森本先生からもサポを頼まれちゃった」

「ふうん……」

「森本先生には、実生に付きまとってた男の子の件でお世話
になったからさ」

「ああ、そうだよね。じゃあ、しっかり手伝ってあげて」

ちぇ。
さっきは、なんで首突っ込むんだっていう顔してたくせにさ
あ。現金なんだから。

「行ってきます」

「気をつけてね」

「へえい」

玄関先で傘を開いて、一歩踏み出した途端に、さした傘がずっ
しり重く感じるくらいの雨の勢い。

「ぐええ……これは……ひどいなあ」

いつもなら、ひょいひょいと歩いているうちにいつの間にか
たどり着けるのに、倍近く時間がかかっちゃった。

全身からぽたぽた水滴を垂らしながら、アパートの呼び鈴を
押す。

「ちわー」

「お疲れー」

僕に負けず劣らずの完全防備で、しゃらが出てきた。

「雨、ひどい?」

「どしゃ降りだー。でも中が制服だから、きっちり合羽着な
いと後で困るし。ううー」

「そうなんだよねー。早く行こ」

「うす」

部屋の中を振り返ったしゃらが、お母さんに声を掛けた。

「じゃあ、行ってきます」

「気をつけてね。工藤さん、ご面倒をお掛けしますけど、よ
ろしくお願いします」

「いえー」

ご面倒、かあ。
しゃらのことならともかく、あのお兄さん絡みだからなあ。

二人して坂口のバス停から駅前行きのバスに乗り、駅で降り
て警察署に向かって歩いていく。
いつもなら人通りが多い歩道も、この雨のせいか行き交う人
がうんと少ない。

なんか……つよーい疎外感を覚えちゃうよ。

僕らがずぶ濡れになって警察署の入り口にたどり着いた時に
は、長友さんがもうグレーのワゴン車を署の近くに横付けし
て待ってくれてた。

「工藤さん、御園さん、今日はよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

しゃらが丁寧にお辞儀をした。
お兄さんのことが絡むから、わたしは知らない、勝手にしろ
とは言えないんだよね。

「五条からは一通り伺ってます。あいつにちゃんと報告出来
る形で道筋を付けないと、でかい腹を抱えて無理やり出てこ
ようとするからね。今日はなんとかがんばりましょう」

だよなあ……。

「はい!」

「あのー、長友さん」

しゃらが、聞いてもいいもんだろうかって感じで。

「わたしたち雨で濡れてべしゃべしゃなんですけど、車汚し
ちゃうんじゃ……」

「わははっ!」

長友さんは、からっと笑い飛ばした。

「捜査現場に乗り込む時に使う作業車だからね。もう充分に
汚いよ。気にしないで乗って」

「は、はい」

死体とか、そういうのが乗せられてるわけじゃないよね……。
ちょっと、おっかなびっくりって感じで車に乗り込んだ。

「ミーティングの場所はどこなんですか?」

「本当なら県の福祉事務所の中でやって欲しいんだけどね。
向こうも今厄介な案件をいくつも抱えてて、手一杯みたいで
ね」

「そうなんですか」

「森本さんが勤務されてる施設の会議室を、先方の厚意で貸
していただいたんだ。ここから十五分くらいかかる」

「はい」

長友さんの車は田貫市の繁華街を抜けて、北にひた走った。
家の密度が下がって、大きな倉庫や工場が点在する工業団地
の中を突っ切っていった車が、その一角で突然止まった。

なんか……イメージが違うなあ。
森本先生の勤めているこどものケア施設って、もっと人気の
あるところに建ってるんだと思ってた。
ここは……すっごい寂しい。

しゃらも同じように感じたんだろう。顔をしかめてる。

虎ロープで囲まれただけの砂利敷きの素っ気ない駐車場に車
を停めた長友さんは、傘をさしても吹き込む雨で顔をびしょ
びしょに濡らしながら、まるっきり飾り気のないコンクリー
ト打ちっ放しの建物に走っていった。
僕らも慌ててその後を追いかけた。

 



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三年生編 第53話(4) [小説]

「警察側は、五条さんの上司の長友さんて人が出るって聞い
てる」

「そっか。五条さんの結婚式でスピーチしてくれたおじさん
だね」

「ベテランさんなんでしょ。心強いよ」

「池端さんも来るの?」

「無理。課が違うから。おとついは、僕らの保護者代わりで
立ち会ってもらっただけなの」

「そうなんだ。んー……」

ミーティングに来るメンバーだけを見ても、今回の件がもの
すごく微妙だってことがよーく分かる。

直接ケアに当たれる五条さんは、出産のことがあるから動け
ない。

田中って人の事件捜査に関わった池端さんにとっては、弓削
さんはあくまでその関係者に過ぎない。
捜査が終了してる今の段階では、池端さん個人の立場でしか
動けない。しかも、刑事としての仕事を削ってまで対応する
ことは出来ないだろう。

だから、本来なら警察関係の人からバトンを受け取る形で、
福祉関係の専門家がケアに当たるのが筋だと思う。
今回のミーティングは、その橋渡しの準備をするもの。
僕は、五条さんや森本先生からそう聞かされてる。

でもね、それはあくまでも理想論であり、現実は必ずしもそ
うなっていない。
僕は、それを間近でずっと見てきたんだ。

長岡さんのケースも、実生が木村くんに絡まれた時も、ゆい
ちゃんのケースも、結局動いてくれたのは五条さんと森本先
生だけ。
学校の先生たちは最初っから腰が引けてるし、福祉関係者の
『ふ』の字も聞いたことがない。

自分で自分の世話が出来ない小さなこどものケアを最優先に
する。確かにそうだよね。
じゃあ、義務教育を抜けたらあとは全部自分でやれってこと
なの?
そこが……ものすごーく乱暴に、ダルに感じるんだ。

もちろん、僕はどういう公的サポートのシステムがあるのか
よく知らないから、福祉行政に携わってる人たちに偉そうな
ことは言えないけどさ。
だけど……なあんかもやもやすんだよね。

それに、これまでのケースでは必ず庇護者がいた。
長岡さんの時は、中村さんと指月のおばあちゃんが受け皿に
なった。
ゆいちゃんやばんこのケースは、親や伯父さんがサポートし
てる。
中沢先生は叔父さんが、五条さんは師範が親代わりになった。

そういう保護者、庇護者が全くいない弓削さんのケースは、
猛烈に条件が悪いんだ。
だから、本当ならもっと早くから福祉に携わる人たちが動か
なければならないと思うんだけど、五条さんが焦ってるって
ことはその出足がものっそ鈍いってこと。

「……」

そんな風になってしまった原因は、間違いなく弓削さんの姿
勢だろう。

だって、弓削さん本人から悲壮感やSOSが出て来ない。
しかも自分で子育てするって言ってしまってるし、非行歴が
なくて生活態度がしっかりしてる。
性格も素直で、常識の範囲内に見える。

当然、この子は独り立ちさせても大丈夫だろうって、誤認さ
れちゃうよね?
福祉の介助が最小限でいいと思われるのは、当然かも知れな
い。

でも、本当にぽんと放り出されたら……。
間違いなく破滅するだろう。弓削さんだけでなく、その子供
も含めて。
五条さんや森本先生の危惧は、そこにある。

弓削さんの自立に向けたケアやサポートプランを考えるのは、
警察や森本先生の仕事じゃない。
警察は指導が主務で、森本先生のところはあくまでもシェル
ターだ。

事態の深刻さをきちんと福祉関係の人たちに認識してもらわ
ないと、五条さんや森本先生のボランティアではどうにもな
らないんだ。

弓削さんの抱えてる異常性を、ちゃんと関係者全員に認識し
てもらえるか。
今日のミーティングのポイントは、それになるんだろなあ。

「はあ……ほんとに気乗りしないよ」

「だよねえ」

「でも一つ一つ片付けていかないと、先に進めないからさ」

「うん……」

「そういや、元原のバカ。あれからすぐ引っ込んだん?」

きーん!
耳が壊れるんじゃないかってくらいデカい声で、しゃらがぶ
ち切れた。

「なんなのよっ! あいつーっ!!」

「ナンパの腕が悪いから、すぐに直接手が出るタイプだろ」

「あんな見え見えなバカ男に引っかかる女の子なんかいるわ
けっ!?」

「いないでしょ。それに今は、校長からがっつり脅しが入っ
てるし」

「それなのにあの態度なの!?」

「前はもっとひどかったんちゃう? しつこいわ、まとわり
つくわ、手が早いわ。自惚れ屋の高岡の方が、まだスマート
だったような」

「きーっ!!」

まあ、そっちで怒りを発散してもらおう。
それを僕に向けられたらたまらんわ。ったく。

「さて。じゃあ、十時に迎えに行く」

「うん、アパートで待ってる」

「後でね」

「はーい」

ぷつ。

携帯を畳んで、相変わらずざざ降りの鉛空を見上げる。
梅雨も後半。しとしとからしっかりした降り方に変わって、
青空が見えるようになったら一気に夏になるんだろう。

一年の時は白。
二年の時は黒。
そして今年の夏は……きっと、灰色になるんだろうなあ。

ああ、すっきりしない。
いろんなことが、いつまでも自分から切り離せずにだらだら
とまとわりついて離れない。
それって、成果なんか絶対に得られないはずなのに、しゃら
にしつこく付きまとう元原みたいなもんだ。

いくら僕やしゃらがバカっちゃうかって突き放しても、べた
べたと。べたべたとまとわりついて……気持ち悪い。

「ちぇっ。なんかもっとこう、すっきりすることはないのか
よう」

 


三年生編 第53話(3) [小説]

「例えばね」

「ええ」

「以前、工藤くんの妹さんにしつこく付きまとってた子が居
たでしょ?」

「ああ、木村くんて言いましたっけ」

「そう。彼は、自分がそういう異常な部分を持っているって
ことを頑ななまでに認めない。そりゃそうよ。認めた時点で
負け。自我が崩壊してしまうから」

「……」

「どういう治療を行うにしても、自分が異常だという認識が
ない人を無理やり正常に持って行くことは不可能なの」

「ええと……ってことは」

「彼は、転校先でも妹さんと同じようなターゲットを見つけ
て、付きまといを始めたの。今、係争中」

「げー……」

「今度は高校だから、前みたいな単純な話に出来ないわ。ご
家族も頭が痛いでしょ」

「……」

「そういう子がそのままオトナになったら」

深い深い溜息が聞こえた。

「誰かを巻き添えにした、もっと大きな悲劇を起こしかねな
いの」

「うわ……」

「私たちは、トラブルを抱えた子、介助の必要な子の手助け
をすることは出来る。でも、神様じゃないからね」

「はい」

「工藤くんや御園さんのケースみたいに、いつもいつもうま
く行くとは限らないわ」

そうか……。

「とてもじゃないけど、何か他の仕事をしながら片手間にや
るじゃ対処出来ない。だから教師を辞めたの」

「分かります」

「そういうジレンマを……」

もう一度、森本先生が深い溜息を漏らした。

「ふううっ……五条も今、ひしひしと感じてるでしょ」


           −=*=−


森本先生は、僕にだけでなくしゃらにも同じように電話した
みたいで、しゃらから電話がかかってきた。

「ねえ、いっき。わたしはいっきがいて助かるんだけどさ。
わたしのスタンスって、どうなるの?」

「お兄さんのこととは切り離すしかないよ」

「どういうこと?」

「僕もしゃらもそうなんだけど、僕らは弓削さんに関しては
最初から部外者なんだ。だから立場上、擁護も非難も出来な
い」

「うん」

「でも、お兄さんに弓削さんをケアする意思がないこと。そ
してしゃらの家では、お兄さんの代わりに彼女の面倒を見る
ことが『物理的に』出来ないこと。それは、しゃらの側から
しか言えないの。実際。お兄さん出てこれないんだし」

「あ、そういうことかあ。わたしはお兄ちゃんの代理ってこ
とでいいのね?」

「そう。だから、しゃらの同席を求めたんでしょ」

「そっか。じゃあ、それ以外は黙ってていいのね?」

「それしか出来ないと思うよ」

ほっとしたんだろう。しゃらの小さな吐息が聞こえた。

「ただ……」

「え?」

「僕がぶち切れるだろうなあ……」

「え!? ちょ、ちょっと! 弓削さんに?」

「弓削さんにキレたってしょうがないよ」

「じゃあ……誰に?」

「それは、ミーティングに出たら分かる」

「大丈夫……なの?」

「分かんない。でも、きっと黙ってられないと思う」

「どして?」

「僕も、かつては弓削さんの立場だったからさ」

「あ!!」

「しゃらだってそうだったでしょ?」

「うん……」

「まあ、話し合いの成り行きを見るよ。最初から僕が出しゃ
ばる筋じゃないもん」

「そうだね」

しゃらだって、情けないお兄さんの尻拭いをやらされるのは
いやでいやでしょうがないだろう。
今日のミーティングに出るのは、まるっきり気乗りしないと
思う。
でも、なんとかこなさないと誰も先に進めない。

ったく。
どうして、こう次から次と厄介なことばっか落っこって来る
んかなあ。ぶちぶち……。

「ねえ、いっき」

「なに?」

「今日、五条さんは……?」

「無理だよー。予定日まではまだ二週間くらいあるけど、万
一のことがあったらミーティングどころじゃなくなるもん」

「だよねえ……」

 



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三年生編 第53話(2) [小説]

「うん。もし良心的な雇用主さんが居ても、同じ職場の他の
人とうまくやっていけない。わがままじゃなければ集団にな
じめるってわけじゃないよね。自分の考えやイエスノーがき
ちんと言えないと、必ず浮く」

「そうですよね」

「集団にうまく適合出来ない以上、仕事をするのは絶対に無
理なの」

「分かります」

「でも、それを行政の人が理解出来ると思う?」

「あ!」

「でしょ? 本人に就労の意思があり、まじめで性格的にも
温和で協力的。赤ちゃんを抱えているから、働く意思を持っ
てるのは当然だとみなす。今日の話し合いでも、福祉課の担
当者がそういう方向に話を持って行こうとしてるの」

「それでかあ!」

「そう、申し訳ないけど朝一で電話させてもらったの」

「でも、今日の話し合いには僕は……」

「オブザーバーで出てくれる? 弓削さんと直接話が出来た
関係者のうち、私や五条は最初から庇護する側。なんでもか
んでも行政に持ち込むなって考えてる連中の抑止力にはなれ
ない」

「えー? そんなものなんですか?」

「たとえば親からDVの被害を受けているみたいな、心身へ
の危険が迫ってるケースが優先されちゃう。行政は、それす
らフォローし切れてないんだから」

「……。じゃあ、僕はそこで何をすればいいんですか?」

「弓削さんをうまくつついて。最初、そうするつもりだった
でしょ?」

「あ、確かに。そうです。本人にはちょっと答えにくい突っ
込みを入れて本音を吐かせようと思ったんですけど……あれ
じゃあ怖くて」

「さすがね。つつくと言っても、自我が弱い方をつつくん
じゃなくて、もう一方をつついて欲しいの」

「もう一方って言うと……学力の方ですか?」

「そう。彼女は小学校の頃から、まともに学校に行かせても
らえてない。中学校の出席日数は、三年間で百日もないの」

「ええっ!? それで卒業出来るんですか!?」

「させちゃったってことね。彼女の通ってた学校の先生が、
アパートに時々面接に来てたみたいだけど、それを出席に振
り替えちゃってるんでしょ」

「試験は?」

「出席した日は、ほとんどその関係の時だと思うよ。学校も
それだけ受けとけって感じで」

「げー……」

「学校も、弓削さんの家庭には深く関わりたくないって、投
げてたってことね」

森本先生の声に、強い怒気が混じった。

自分もそうされてたから、僕は学校っていうのが信頼に値し
ないただの箱だってことはよーく分かってる。

何もなければ、ただの箱で終わるけどさ。
でも僕の時みたいに何かあれば、それは箱から檻に変わる。
檻の外にいる人たちには、その怖さや惨めさが全く分からな
い。

だらしないとか、覇気がないからだとか、檻の外からそうい
う無責任なことを言い放つやつら。
じゃあ、あんたらが一人で檻に入ってみろよ!

僕が檻の中から毎日世界を呪っていた時から、まだ三年しか
経ってない。経って……ないんだ。

「弓削さんは、これまでほとんどまともな教育を受けていな
い。その歪みを、ちゃんと連中に見せておかないとならない
の」

森本先生の声で、はっと我に返った。
おっとっと。

「でも、それって森本先生の方から言えるんじゃ……」

「私たちから言うと、弓削さんのフォローが出来なくなる」

あっ!

「そ、そっか」

「私や五条の立場から、弓削さんにあんたはバカだって言え
ないの。私たちが弓削さんの上に立った途端に、彼女は私た
ちに隷属する。私たちの指示した通りにしか動かなくなるの。
それじゃあ、全部おじゃんよ」

「ぐえー、すっごい難しい……」

「そうなの。本当は、今日の話し合い自体を延期したいとこ
ろなんだけど、関係者の間できちんと共通認識を作っておか
ないと、行政側の受け皿作りを促せない」

「そっかあ」

「ごめんね。受験生に面倒なことを頼んじゃって」

「はああ……しょうがないです。しゃらのお兄さんのことも
あるし」

「そうね。そっちも厄介よ」

「やっぱかあ」

「弓削さんは自我を消して受け入れるけど、則弘さんはすぐ
全部ぶん投げて逃げようとする。どちらも、現実への対処法
としては全く機能しない」

「ですよね……」

「まあ、則弘さんはもうとっくに成人してるんだから、自力
でなんとかしてもらうしかないわ」

長岡さんのお兄さんの時と同じで、森本先生がすぱっと突き
放した。

そのあと僕がしばらく黙っていたら、森本先生に話し掛けら
れた。

「ねえ、工藤くん」

「はい?」

「五条もいろんな子と向き合ったと思うけど、私たちもたく
さんのケースを見てきてる」

「はい」

「そしてね、私たちが関わった子の全てでケアがうまく行っ
たってことはない。むしろ、うまく行く方がまれなの」

「……」