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【SS】 制約 (上野千鶴、リドルのマスター) (一) [SS]


「ほんとにわたしでいいんですか?」

わたしは、マスターに何度も確認した。
マスターが提示してくれたのは、わたしには夢のような好条
件だったけど、本当にそれでいいのかが信じられなかったか
らだ。

「いや、僕の出した条件で承けてくれるなら、本当に助かり
ます」


           −=*=−


二人目の子供が生まれてから、それまでの生活が一変した。
朝から晩まで育児と家事で振り回され続け、子供一人の時は
なんだかんだでまだ確保できていた自分の時間が、まるっき
りなくなった。

自分はのんびり屋だから、このくらいのストレスは平気よ。
夫にも親にもそう言って安心させてたけど、平気だっていう
ポーズすら取れなくなっていた自分の心の危うさに……愕然
とした。

家に閉じ込められたまま、ストレスのはけ口がどこにも見つ
けられない。
ストレスが爆発して、自分の子供に鬱憤をぶつけてしまうん
じゃないかって……すっごい怖かった。
わたしは、ぎりぎりまで追い詰められていたんだ。

お義母さんが、そんなわたしの窮状を一早く察してくれた。

「子供たちは見ててあげるから、週に半日くらいは外でしっ
かり気晴らししなさいな」

そう……提案してくれた。
わたしは本当にラッキーだったんだろう。

子供たちがいなくても、家事はしないとならない。
わたしがずっと家にいると、結局体も心も休まらない。
だから、お義母さんの申し出は本当に嬉しかった。

でも、ただお茶するとか買い物するとかだと、結局家のこと
が気になってしまう。
それに、子供をほっぽらかして自分だけが遊んでいるように
思えて、気軽に友達を誘えない。

全然気晴らしに……ならないんだ。

働きたい。
それは、お金のためじゃない。
わたしの気持ちを、家や子供のことからぱちんと切り替える
ためだ。

独身時代はずっと店員をやってて、接客には慣れてる。
接客している間は、お客さんに意識を集中出来るんだ。
他に何も考えなくて済む。
そういう時間が欲しい。どうしても欲しい!

でも、週に一回だけ、それも半日だけの勤務なんて、いくら
パートだって言ってもありえないでしょ。
せっかくお義母さんが提案してくれた息抜きが、空振りに終
わるかもしれない。目の前にチャンスがあるのに……。
わたしは、また追い詰められてしまったの。

そんな、世の中わたしに都合良くは出来てないよね……。
意気消沈したわたしがふらっと入った喫茶店。
そこが……リドルだった。

普段食料品とかを買い物する時には、大型スーパーに行くこ
との方がずっと多い。
でもわたしは、昔からの商店街で買い物するのが好きだった。
値段とかそういうことじゃなくて、人と人とが直接触れ合う
機会が必ずあるから。

魚屋の元気なお兄さん。
八百屋の強引なおじさん。
肉屋の仲のいい年配のご夫婦。
他愛ない会話であっても、そこで言葉をやり取りする楽しさ
があった。

そして、商店街のアーケードの中は車がほとんど通らなかっ
た。
子供連れで安心して歩けるっていうことも、わたしには嬉し
かったんだ。

リドルは、その商店街の中にある喫茶店。
前から気にはなってたけど、子供連れじゃ入れない。

でも、そこに興味があったからっていうことじゃなく。
わたしは、どこでもいいから逃げ込みたかったんだろう。



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ドアを引いたら、ドアベルがちりりんと鳴って、その音にび
くっとした。

薄暗い店内には年配のお客さんが何人かいて、各々コーヒー
や紅茶を飲みながら新聞に目を通したり、本を読んだりして
る。入ってきたわたしを見る人は誰もいない。

ボックス席を一人で占有するのはあれかなあと思って、カウ
ンターの椅子に腰を下ろした。

「いらっしゃいませー」

マスターは、わたしよりかは年上っぽい、でも中年というに
はまだ若い男の人。
微笑を浮かべながら、サイフォンを組み立てていた。

「何にいたしましょうか?」

「ええと……ココア、出来ます?」

「大丈夫ですよ。ミルクとお砂糖はどうなさいますか?」

え?

「いえ、甘いのがお好きな方、あっさりがいいとおっしゃる
方、いろいろおられるので」

うわ……すごおい。
ちゃんと好みに調整してくれるんだあ。
わたしは、それでいっぺんにこのお店が好きになった。

「じゃあ、甘め、濃いめでお願いできます?」

「かしこまりました」

年季の入ったミルクパンに特濃牛乳が注がれ、コンロの細い
火でゆっくりと温められた。
大きめのマグカップにきび糖とココアパウダーを量り取った
マスターはスプーンで掬った牛乳を垂らして、それをしっか
り練り上げた。

牛乳に膜が張らないうちに鍋をコンロから下ろしたマスター
は、慎重にマグの中のココアペーストを溶き伸ばしていく。

手間が味の違いに出るコーヒーや紅茶とは違う。
たかが、ココアじゃないか。
ココアパウダーと砂糖とホットミルクを入れてがちゃがちゃ
かき回すだけでもココアは出来る。

でも、マスターはそうしなかった。
丁寧に、丁寧に、一杯のココアを作り上げた。

「お待たせいたしました。ゆっくり温まっていってください
ね」

「ありがとうございます」

その一杯のココアは。
かちかちに張り詰めていた心を緩めてくれるくらい、暖かく
てほっとする味だった。

 

 


【SS】 俺様 (曽田真弓、リドルのマスター) (三) [SS]


なんか、わたしがすごくわがまま勝手な人間だと決めつけら
れているような気がして不愉快だった。

「あの……」

「はい?」

「佐竹さんは……そうしてたんですか?」

「あはは」

マスターが苦笑した。

「みこちんは、どこまでも俺様だからね。一目見ただけで機
嫌がいいか悪いか分かる。客より偉い」

どてっ。な、なんつーか……。それでいいの?

「でもね、みこちんは戸を閉めないんだ。常時開けっ放しな
んだよ。それだけじゃない。人の戸を、壊してでも開けに行
くの。おせっかいで姉御肌」

あ!

「曽田さんは、みこちんをよく知らないから愚痴をこぼした
んでしょ? もしもう少し付き合いが深くなったら。相手が
見えて来たら。オブラートに包んだんじゃない?」

う……図星……だ。

「人によって自分の戸の開け閉めをがらっと変えちゃうって
ことは、周囲から見てなんだかなあと思われちゃうの。特に、
こういう客商売だとね」

「は……い」

「それなら、これこれこういう時には戸を閉めちゃうぞーっ
て自分から宣言しちゃった方がいい。俺様の部分は、最初か
ら見えてた方が分かりやすいの」

そ、そんな。

「でも、それをすぐやれっていうのは難しいよ。どこまでも
あけすけってのは、みこちんだから出来ること」

「はい」

「それなら、自分の戸を閉めちゃう前に、あなたの戸を開け
させてくださいって努力する方が、まだ楽でしょ?」

あ、そういうことか。
マスターのたとえは、すとんと納得出来るものだった。

わたしの表情の変化をじーっと見ていたマスターは、カウン
ターテーブルをぽんと叩いて、さっと立ち上がった。

「うちには飛び込みのお客さんは滅多に来ません。常連さん
ばかりです」

「そうなんですか」

「商店街の中の店だからね」

そっか。

「曽田さんは、ああいつものお客さんかで済ますんじゃなく
て、そういう常連さんの戸をちゃんと開けてくださいね」

「……はい」

「そうしたら、あなたの戸も必ず開けてもらえますから」


           −=*=−


あんたは隠れ俺様。
後で、佐竹さんからずばっと言われた。

良し悪しじゃないよ。
見え見えでも隠れてても、俺様は俺様なの。
そういうキャラなんだって、自覚するしかないでしょ。

……返す言葉がなかった。

わたしが何を言ったって、したって、それで何が変わるわけ
でもない。
俺様のわたしは、さっさと自分の戸を閉めてしまったんだ。
順番が……逆だったね。

マスターや佐竹さんのアドバイスを受けて、わたしは常連さ
んの戸を開けようって決意したけど、その必要なんか何もな
かった。
新人のわたしに興味津々の常連さんたちが、無遠慮にわたし
の戸を開けようとしたからだ。

あはは、マスター。確かに楽ちんだわ。
これじゃあ、わたしが戸を閉めない限り楽勝じゃないの。

でも。
リドルでのわたしは、俺様になる必要がない。
戸を閉める必要がないんだ。

そして、リドルはわたしが居るべき場所じゃない。
ここは……わたしの場所じゃ……ない。

じゃあ、わたしはどこに行けばいいの?



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「曽田さん、そろそろ上がりにしよう」

「はあい」

最後の常連さんが、ごっそさんと言い残して店を出た後、マ
スターは入り口ドアを施錠しに行った。
わたしは椅子を寄せて床を拭ける状態にする。

今日も、答えは出なかったな……。

「マスター」

「うん?」

「俺様っていうのは……まずいんですかねえ」

「それを、俺様の俺に聞くなよ」

マスターが、おいおいって感じで苦笑いした。

ええー? うそお! マスターが俺様あ?

「会社勤めすんのが嫌で、こういう店やることにしたんだか
らさ」

「ああ、そうかあ」

「みこちんの方が、俺様に見えてそうでもない。仕事での役
回りはわきまえてて、きちんとチームプレイをこなしてるか
らね」

「そうですよね」

「まあ、モチベーションをどうこさえるかの問題じゃないか
と思うけどね。だって、指図しなくても動くのは……」

マスターが、わたしを見てにやっと笑った。

「いつでも、俺様だけだからさ」

 

 


【SS】 俺様 (曽田真弓、リドルのマスター) (二) [SS]


わたしがリドルでバイトすることになったきっかけ。
それは、ひょんなことからだった。

会社を辞めて抜け殻みたいになってたわたしは、すぐに次の
仕事を探す意欲が湧かなくて、住んでたアパートを引き払っ
て実家に帰った。

家に戻ったところで、何かすることがあるわけじゃない。
親はいい顔しないし、わたしもどこかで踏ん切りを付けて次
の行動を起こさなきゃとは思ってた。

でも、会社という集団から弾き出されてしまったわたしには、
致命的な欠陥があるのかもしれない。
それが何かが全然分からなかったわたしは、完全に腰が引け
てしまったんだ。

少しだけ。もう少しだけ猶予が欲しい。
わたしは学生の時にちょこっとだけ習っていたウクレレを気
晴らしに弾いてみようと思って、錆びちゃってた弦を張り替
えるのに楽器店に行ったんだ。
そこで……レジにいた佐竹さんていう若い女性店員さんと仲
良くなったの。すっごい話しやすい、気さくな人だったから。

大学を中退して、その後三年半くらいフリーターをやって、
いつまでもフリーターじゃなあって、ここに就職した。
佐竹さんは、そう言った。

でも佐竹さんは、フリーターをしてたってことが信じられな
いくらい、しゃっきしゃき。
きびきびしてて、明るくて、冗談好きで。
まだお店で働き始めてそんなに経ってないはずなのに、他の
スタッフの人たちとすごく打ち解けていた。

そこに……わたしはちくりと痛みを感じたんだ。

わたしは、自分の欠陥に気付かなかったんじゃない。
それを考えたくなかっただけ。

同じセクションに苦手な人が何人かいて。
わたしは、その人たちとどうしてもうまくコミュニケーショ
ンが取れなかった。
陰口叩いたりとか露骨に嫌悪感を示したりとか、そういうこ
とはしなかったつもりなんだけど……わたしの苦手意識は以
心伝心で相手に伝わっていたんだろう。

そこから。
その小さな亀裂から、わたしの破滅が始まっていたんだ。

互いに距離を置く。
個人的な付き合いの場合ならそれはオトナな対応で、ちゃん
と機能するんだろう。でも仕事ならそうは行かない、

チームワークや役割分担がきちんと求められる職場でメンバー
間の連携が切れてしまうと、すぐに致命傷になる。
そして、緊張関係の要の部分にわたしが居た。

……そういうこと。

わたしがこのまま次の職に就いたら、また同じ失敗を繰り返
すんじゃないだろうか。それは……底なしの恐怖に近かった
んだ。
わたしは、その悩みを黙って抱えていられなかった。

佐竹さんとは知り合ったばかり。何の利害関係もない。
わたしは、そこで洗いざらいゲロしたんだよね。
そしたら、佐竹さんが意外なことを言った。

「わたしのはさあ。フリーターって言うよりリハビリだった
んだよね。曽田さんにも、それ必要なんちゃう?」

リハビリ……かあ。

佐竹さんはわたしに、佐竹さんが前に働いていたリドルとい
う喫茶店でアルバイトすることを勧めてくれた。
後釜はまだフィックスされてないはず。マスターは多分喜ん
で雇ってくれるよって。

正直、バイトするなら人とあまり顔を合わせないタイプの仕
事にしたかった。
でも、佐竹さんがリハビリが必要って言ったことが気になっ
たんだ。

わたしは思い切ってリドルに電話して、バイトをさせてもら
えませんかってマスターにお願いしてみた。
そうしたら、面接したいのでお店まで来ていただけませんか
と、丁寧な返事。

いつまでもうだうだ考え込んでいたってしょうがないよね。
わたしは……思い切ってトライしてみることにしたんだ。




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閉店後の喫茶店。
マスターが淹れてくれた一杯のコーヒーを挟んで、面接が始
まった。

「曽田さんは、こういう給仕とか店員さんとかのバイトや仕
事の経験がありますか?」

「いえ……学生時代は親がバイトを許してくれなかったので」

「そうですか。じゃあ、そこからかな」

温厚で優しげなマスターが、わたしの差し出した履歴書に素
早く目を通してから、すぐに返してくれた。
間髪を入れずに、マスターが話し始めた。

「ええとね。ウエイトレスっていう仕事は、ものすごーく簡
単で楽です」

「は?」

「でも、同時にものすごーく厄介で、しんどい仕事なんです
よ」

マスターの目は、笑ってるみたいに見えて、笑っていなかっ
た。

「僕の仕事も含めて、飲食業はサービス業です。お客さんは
店を選べますが、店はお客さんを選べません」

「……そうですね」

「いろんなタイプのお客さんが来ます。全員が、あなたに好
意的なわけじゃありません」

「……」

「あなたが苦手な、嫌いなお客さんが来ても、帰れって言え
ません。いいですか?」

「はい」

「人間ですから、感情にでこぼこがあるのは当たり前です」

「ええ」

「でも、それをお客さんに押し付けたら、あなたがそれだけ
の人間だって思われるんですよ」

「……」

「何もかも我慢しろとは言いませんが、あなたの戸は最後に
閉めてくださいね」

「どういう……ことですか?」

「その分、お客さんの戸を開ける努力をしてください。それ
が僕のオーダーです」

 

 


【SS】 俺様 (曽田真弓、リドルのマスター) (一) [SS]


ぴぴっ! ぴぴっ! ぴぴっ!

これまでの習慣で、つい定時に鳴らしてしまう目覚まし。
それをぽんと叩いて止めて。

わたしは上半身を起こすと、大きな溜息を吐き出しながら両
手で顔を覆った。

「そっか……もう辞めちゃったんだよな」

せいせいしたって言えれば良かったんだけど、そんな心境に
はどうしてもなれなかった。

それがわたしの望んでいない職種、会社、環境であれば、わ
たしは喜んで言っただろう。
ああ、こんなクソなところ辞められて、ほんとにせいせいし
たって。

でも、その正反対。
どうしてもその業種に就きたくて猛勉強して資格を取って、
靴を何足も履き潰して会社回りして、入社出来た時にはこん
ないい会社なんか他にどこにもないって、本気でそう思って
たんだ。

それが……。
どこで歯車が狂っちゃったんだろう?

「……」

どんなに考えても、それがなぜかがよく分からない。
分かっているのは、わたしが社で完全に浮いてしまったとい
うこと。
その状態で仕事を続ける限り、わたしを中心に不協和音の波
紋が広がって全てが台無しになるっていう事実だけが、目前
に突き付けられていた。

わたしが、こうしてああしてって会社に指図することなんか
出来ない。
わたしが何をどう言ったところで、社がわたしへの見方を変
えることは決してないだろう。

そうしたら、わたしの出来ることは一つしかなかったんだ。
辞めるしか……なかったんだ。

「ふううううっ……」




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「おはようございます」

「おはよう。今日もよろしくな」

「はい!」

朝の開店準備。
マスターは、テーブルと椅子のセッティングを済ませてもう
一度店内をチェックすると、入り口ドアのタグを『営業中』
に切り替えに行った。

まだお客さんが誰もいない静かな店内。
でも開店を待っている常連さんが、もうこっちに向かって歩
いている頃だろう。

わたしも、テーブルの上のメニューや飾られている花や小物
類をもう一度チェックして、お客さんの入店を待つ。

静かだけど、賑やかになる予感を孕んでいる。
緊張と期待が交錯する、不思議な時間。
その短い間に、わたしはなぜ自分がここにいるのかを繰り返
し自問する。

ここは……わたしが居るべき場所じゃない。
イルベキ バショジャ ナイ。

じゃあ、わたしはどこに居るのが正しいの?
それが分からない。見つからない。もどかしい。

ちりん!

ドアベルが鳴って、いつも一番乗りの中田さんのおじいちゃ
んがゆっくりと入ってきた。

「いらっしゃいませー! お早うございます」

「ああ、まゆちゃんお早う。コーヒーとトーストを頼む」

「いつものですね?」

「そう」

「ありがとうございます。マスター、お勧めコーヒーとトー
ストです」

「おっけー」

マスターがサイフォンのサーバーに水を注ぎ、自分自身を確
認するようにして見回すと、おもむろにヒーターのスイッチ
を入れた。
今日の仕事はここから始まるんだぞって、自分に喝を入れる
みたいに。

お湯が湧いてくるまでの間に、電動ミルで豆を挽く。
今日のお勧めはホンジュラスだったかな。コーヒーのかぐわ
しい香りがかすかに漂ってくる。でも、それはまだ予感だ。

漏斗に挽いた粉を入れたマスターは、サイフォンの受けにそ
れをセットすると、オーブントースターのダイアルをぐりぐ
り回してから、角食を厚めに切った。

じじじじじ……。

庫内の温度が上がるまでの間に、コーヒーカップをカウンター
に出し、お湯を注いで温める。
流れるような、淀みない手付き。

サイフォンの水はすでに上のポットに上がって、ぽこぽこと
軽快な音楽を奏でている。
それに合わせて、豆を挽いていた時とは違う甘いまろやかな
コーヒーの匂いが店内を満たし始めた。

ぱちん。
サイフォンのスイッチを切ったマスターが、トースターの蓋
を開けてさっとパンを置いた。
それから、パンの色付きを慎重に見計らってジャストのタイ
ミングで取り出した。

浅めの狐色に焼き上がったトーストを皿の上にさっと据える
と、小さなバターポットを添えてわたしに差し出す。
わたしがトレイの上にそれを乗せたら、熱々のコーヒーがと
くとくとカップに注がれた。

ああ……おいしそう。

「お待たせいたしました。本日のお勧めコーヒーとトースト
になります」

「ああ、いい香りだ。これがないと一日が始まらん」

手にしていた新聞を手早く畳んだ中田のおじいちゃんは、嬉
しそうにコーヒーを口に含み、それからトーストにたっぷり
バターを塗って、がぶっと噛み付いた。

「嫁さんが、バターは体に悪いからって塗らせてくれんのだ。
ったく……」

あはは。
だからって、ここで塗ったらだめだよー。おじいちゃん。

でも。
そういう繰り言すら、おじいちゃんにとっては一日を始める
ための大事な儀式になっているんだろう。

 

 


【SS】 ラテアート (前川路乃、リドルのマスター) (二) [SS]


「ははは。相変わらずハイテンポだよなあ」

「明るい方ですね」

「まあね。直情径行の姉御肌。怒らすと、すぐに拳が吹っ飛
んでくる」

マスターが肩をすくめた。
元気でいいなあ……。わたしは思わず愚痴った。

「ああいう方なら……すぐ気持ちを切り替えられるんでしょ
うね」

「いやあ」

それまでにこにこしていたマスターが、ふっと真顔になった。

「違うよ。あのタフなみこちんですら、三年かかったんだ」

「えっ!?」

「親に裏切られ、恋人に捨てられ、その心の傷が元で歌えな
くなった。子供の頃からの大事な夢。人生を懸けてた声楽を
諦めて、音大を中退したんだよ」

げ……。

「自分も含めて、信じられるもの、頼れるものが何もなくなっ
た。全てを失ったんだ」

「……」

「そのどん底から這い上がって、三年でここを卒業した。ほ
んとに大したもんだと思うよ」

「じゃあ、勉強っていうのは……」

「自分ばかり見てたって、答えなんか分かんないさ」

マスターが、わたしに向かってぴしりと言い据えた。

「ここに来るお客さんは、誰もが自分の人生を背負ってる。
それはきれいごとばかりじゃないよ。でっかい傷も、醜い感
情もあるんだ」

「でも、そのどろどろをしっかり見て、自分ならどうこなす
すかを考える。答えはそこから出てくるよ」

「まさに勉強さ。俺も毎日勉強してる」

「そうですか……」

マスターはそれ以上ごちゃごちゃ言わないで、カウンターの
後ろに戻ってコーヒー豆のローストを始めた。
そうか。焙煎香がきついから、お客さんが多い時には出来な
いもんなあ。

「ねえ、みっち」

じっとマスターを見ていたかなこが、短い溜息をついた。

「うん?」

「ああいう人にアドバイスをもらえるって、いいね」

うん。ここのマスターは、前のあの女たらしの男とは違う。
その口から綺麗事や甘い言葉が出てくることはない。
出てくるのは……どれもそのまま飲み込むには苦い言葉。
砂糖やミルクでぼやかさないコーヒーの苦さ。そのものだ。

「うん……そうね」

かなこは、この喫茶店はわたしにすごく合ってると言い残し
て、安心したように帰って行った。

わざわざわたしに会いに来てくれたかなこ。
でも、それはわたしを心配したからじゃないと思う。
きっとかなこには、わたしに何か相談したいことがあったん
だろう。

かなこがそれを切り出さなかったのは、わたしが甘ったれな
ままで全然変わってないのが分かっちゃったから。
共倒れしそうで、怖くて口に出せなかったんでしょ?
……情けない。後で電話しないとね……。

わたしは、空になった二客のコーヒーカップを見下ろした。

中身が飲み干されたコーヒーカップ。
そこにラテアートがあろうがなかろうが、中身は紛れもなく
コーヒーだ。
そしてかなこの心の中には、わたしの描いたラテアートより、
マスターの苦言の方がしっかりと印象付けられたんだろう。

わたしがそうであるように。

カップの縁をそっと指で弾いて、鳴らした。
ちん。

わたしは……ラテアートをしばらく封印しよう。

マスターが言うみたいに、混ぜ物なしでちゃんと自分ていう
コーヒーの味が分かるようにしないとだめだ。
苦さをいつまでもミルクと砂糖でごまかしていたら、また誰
かに騙されて食いものにされちゃうんだろう。

わたしは、同じ失敗を愚かしく繰り返したくない。

黒くて苦いコーヒーの液面に映る自分。
それを……きちんと見据えないとね。


           −=*=−


閉店直後。
わたしはカップをきれいに洗って、きゅっきゅっと拭き上げ、
カップボードに収める。

「……」

一つだけ手元に残したカップ。
それにスチーマーで泡立てたホットミルクを注いで、ココア
パウダーで文字を記した。

カップをカウンターに置き、床にモップを走らせていたマス
ターに声を掛けた。

「マスター、お先ですー」

「ああ、お疲れ様」

裏口から店を出たわたしは、正面に回り込んでこそっと店内
を覗いた。

わたしの残したラテアートに気付いたマスターが、苦笑と共
にホットミルクをごくりと飲み干した。

それを見届けたわたしは。
星の瞬き始めた淡い夜空を見上げて、小声で呟いてみる。

「ありがとう、くらいならいいよね」





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(アラゲカワラタケ)

 

 


【SS】 ラテアート (前川路乃、リドルのマスター) (一) [SS]


クリーミーに泡立てられたミルク。
その上で、黒いコーヒーが自在に世界を描く。

描かれた絵は人を騙すみたいに、にっこりと微笑む。
世界はちっとも苦くなんかない。
甘い、夢のような世界なんだよと。

嘘ばっか。
そんなの、カップに口を付けたらすぐに崩れて消える。

確かに夢じゃない。
ラテアートの絵は現実にそこにある。
でも、そこにあるのに儚い。
あっという間に……崩れて消える。

そして、口の中に残るのは苦い苦い後味だけだ。


           −=*=−


「うわあ! みっち、すごおい!」

「そう?」

「これだけでやってけるんじゃない?」

大学で仲の良かったかなこが、わたしのバイト先の喫茶店に
遊びに来てくれた。
卒業したあと一度も会ってなかったから、三年ぶり。

かなこには、学生だった時にもラテアートを見せてたけど、
その時はまだまだ下手っぴだったんだよね。
目をまん丸にしてラテアートを覗き込んでるかなこに向かっ
て、ぱたぱた手を振る。

「無理、無理。このくらいのラテアートなら、描ける人は山
のようにいるよ」

「へー、そうなんかー」

「それに」

わたしはカウンターの方を振り返る。

「マスターがこういうの嫌いなんだよね。だからここじゃやっ
たことないの」

「ええー? おしゃれなのにー」

「混じり気のないコーヒーそのものを、ちゃんと味わって欲
しいんだってさ」

「ふうん」

かなこが、わたしの肩越しにマスターの顔をちら見した。

「うるさ型?」

「そんなことないよ。優しい人。でも、こだわるところには
すごくこだわるの」

「なるほどねえ」


           −=*=−


わたしがラテアートを描くようになったきっかけは、ささい
なことだった。

学生時代バイトしていたこことは別の喫茶店で、そこのあら
さーのマスターに惚れ込んだ。
おしゃれですごく聡明。いつも笑顔で会話にウイットが利い
てて、一緒に居てとっても楽しかったんだ。
そのマスターに、ラテアートの描き方を習ったの。

でも、マスターが手ほどきしてくれたのはラテアートだけじゃ
なかった。
世間知らずのわたしは、マスターが見せる聡明さや快活さが
女の子を呼び込むための単なる小道具だっていうことに、全
然気付かなかったんだ。

マスターの舌先三寸の口説き文句にかあっとのぼせて、ずっ
と一緒に仕事しようと思い詰めて、勤め始めたばかりの会社
を辞め、バリスタ養成校に入り直した。
マスターにはもう奥さん子供がいたことなんか、これっぽっ
ちも知らないで。

ああ……。
それは騙したマスターよりも、あっさり騙されてしまったわ
たしが悪いんだろう。

マスターにとっては、わたしなんか大勢いるつまみ食い用の
若い子の一人に過ぎない。
一方的にのぼせ上がってたわたしが大バカだっただけ。

わたしとの付き合いが奥さんにばれたマスターは、わたしを
首にして追い払った。
わたしに残ったのは、すぐに消えちゃうラテアート。

そして……いつまでも口の中に残る苦い味だけだった。


           −=*=−


お友達が来てるなら、お客さんのピークは過ぎてるから落ち
着いてゆっくり話したらいいよ。
そういうマスターの勧めに甘えて、わたしはかなこの向かい
の席に腰を下ろした。
その途端にドアベルが派手に鳴って、ばたんと扉が開いた。

わたしと同じくらいの年かなあ。
いかにもエネルギッシュっていう感じの若い女の人が、息を
弾ませながら店にのしのしと入ってきた。

「うーす!」

「お! みこちん、お見限りぃ」

「わはは! ばたばた忙しくてさあ!」

「みたいだな。いいことじゃないか」

「まあね。あ、お勧めコーヒーと今日のケーキちょうだい」

「あいよ」

慌てて席を立って接客しようとしたら、お客さんが手を上げ
てわたしを止めた。

「ああ、いいって。今の時間はのんびりしてて。あたしもそ
うやってたから」

「あの……ここで働かれてたんですか?」

「そ。三年ちょっとね。マスター、あたしの後の人?」

「そう。みこちんみたいに、一人で何人前も出来る人はいな
いよ。今は三人シフトで回してるんだ。その一人。前川路乃
さん」

「シフトかあ。そうだよなあ」

頷いたお客さんは、わたしにぽんと話を振った。

「ここは働きやすいでしょ?」

「はい。そうですね」

「しっかり勉強してってちょうだい。あたしもたっぷり勉強
したからさ」

え? 勉強……って?

そのあとマスターと軽快に突っ込み合っていた女の人は、あっ
という間にケーキとコーヒーを平らげて、ごっそさんと慌た
だしく店を出て行った。

 

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(コウヤクタケ、他)


 


てぃくる 210 すりおろす [てぃくる]


林檎

「風邪ひいた時は、お袋にすりおろした林檎を食べさせても
らえたんだよね」

「今は?」

「風邪ひいたら、かみさんに毎日こきおろされる」


生姜

「すりおろした生姜は、薬味の定番だよな」

「定番なのに、ここにないじゃんか」

「財布をすられたんだ。しょうがないだろ?」


自然薯

「とろろ汁作ろうと思って、すりおろしたんだけどさ」

「すごい粘りだろ?」

「俺の粘りの方が先になくなった」


チーズ

「仕上がりに、チーズをすりおろしてかけて、と」

「ねえ、本気?」

「だめなの?」

「モッツァレラチーズはすりおろすの無理だって」


パン粉

「パンをすりおろして作ると、きめ細かくておいしいのよ」

「お母様。パンツをずりおろすのは止めてください」




「せんせー! タカシくんが膝をすりおろしちゃったー!」

「すりむく、でしょ?」

「浮気したわねって、ミカコちゃんにおろし金で!」




(^^;;





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あ、これはおろし金ではなく、羊歯でございます。
目をすりおろさないように、注意してご覧になってください。(^m^)







  甘酒を炊く手を止めて生姜擦る








Grinder   by Judas Priest

 

 


てぃくる 209 豆の上 [てぃくる]


貧相な身形なのに、自分を姫だと主張する若い女。

王子は、本当に姫なのかどうかを確かめるために、何枚も何

枚も敷き詰めた羽根布団の一番下に、えんどう豆を一つ忍ば

せました。

翌朝、王子は女に尋ねます。

「姫、よく眠れましたか?」

「いいえ、一晩中背中に硬いものが当たって、痛くてよく眠
れませんでした」

王子は確証を得ます。
この女性こそ、間違いなく本物の姫だと。

ですが……。

「姫。あなたは、私に何を望んでいるのですか?」

「あなたと結婚すること、です」

「それは構いませんが、あなたは豆の上ではなく、針の筵の
上に寝ることになりますよ?」






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(クロガネモチの実)






 些事を気にしなければ、豆の上でも寝られるようになる
 だが、あなたは大事なことにすら気付かなくなる
 
 些事を気にすると、全てが大事になるので
 あなたは、どこにも寝られる場所がなくなるだろう









  冬晴れや鳥さへ食はぬ赤心








I'm Sensitive  by Jewel

 


てぃくる 208 郵便配達は二度ベルを鳴らす [てぃくる]


「ねえねえ。奥さん」

「なにー?」

「最近さあ、いつも来てた郵便配達のお兄さん、見ないと思
わない?」

「ああ、また鐘(ベル)を鳴らしちゃったからねえ」

「え!? ちょ、ちょっと何の鐘!?」

「結婚式の」

「なんだ脅かさないでよう。へえ、結婚して、チャペルで誓
いの鐘を鳴らすってことか」

「二度目のね」





(^^;;




って、二度で済むんでしょうか?
まあ、いっぱい用意しときましょ。


ほれ





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(ムスカリ)





  誓うより前に式あり
    安上がりの人生飾る鐘の音散る







ウエディング・ベル  by シュガー

 


ちょっといっぷく その130 [付記]

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

三年になってからのごたごたの悪影響を振り払うかのように、
ものすごーくハードな春期講習がありました。

この二話では、ぽんいちの緩さと受験生としての厳しさの間
に挟まって身動きの取れなかったいっきたちの意識の変化を
さらっと描きました。

外から風が入る。
それは、とても大事なことです。

外部の人たちには、ぽんいちの抱えている構造的な欠陥や問
題点なんか理解のしようがありません。
現状がどうか。それはどこまで改善、向上しうるのか。
ぽんいちには何のしがらみもない業者さんは、そこをビジネ
スライクにすぱっと見通します。

いっきたちの意識もリセットされましたが、講習に立ち会っ
たぽんいちの先生たちにとっても、自らの甘さや鈍さを戒め
るのに十分な刺激になったと思います。


           −=*=−


さて。
ねぎ坊主先生の指摘でいっきが一番ショックを受けたのは。

『受験レースはこれからが本番ではなく、もうとっくに折り
返しを過ぎてる』


……ということです。

受験校じゃないぽんいちでは、マカのようなほんの一部の優
秀な生徒以外には上昇志向がないんです。
いっきは危機感を口にしていながら、そこがものすごーくい
い加減だったんです。

自分の『今』の実力に見合ったところに行ければいい。
それは逃げじゃないかと内心思っていながらも、じゃあ自分
のポジションを上げるために必死に努力をしていたかと言わ
れると……。

いっきは、中途半端に成績が上がってしまったことで自分の
実力を過大評価してしまったんですね。

受験対策のプロであるねぎ坊主先生は、いっきの甘々な意識
を決して見逃しません。

そこそこでいいやっていう安全志向と、リスク負ってもがり
がり行くぞっていう上昇志向。
そのどっちに重点が置かれているか分からないよ。
そう突きつけられてしまったんです。

いっきは、勉強の面でも他の子よりはしっかり努力している
と思います。
でも努力を具現化する先がなくて、それが努力を結実させる
効率を下げているということを甘く見ていました。

ねぎ坊主先生の指摘は簡素ですが、逃げ場がありません。
いっきには、その指摘がどっしりと重くのしかかることにな
りました。


           −=*=−


この後少してぃくるを挟み、それからSSを三つお届けいた
します。
どれも比較的コンパクトなSSなんですが、これまでのSS
とは少しだけ趣旨が違います。

まず、SSに登場するのは三人の女性なんですが、本編には
一度も登場しておりません。
いずれも初出になり、実質このSSのみで使い捨てられます。
モブ(その他大勢)に近いですね。
同じ方法は、新潟旅行編の関係者で組んだSSの一つ、『蜂
蜜』で試したんですが、今回はそれとは目的が違うんです。

新潟旅行編関係のSS三つは、魅力的なキャラでありながら
用済みになってしまった日浦準規を描写するためのものでし
た。準規自体が本編にもう関わらないので、完全なお遊びだっ
たんですよ。

でも今度のSSは、本編にしばしば登場する人物であり、いっ
きやしゃら、そして重要なサブキャラである中沢先生や美琴
さん、かんちゃんにずっと絡んできた人物を第三者視線で描
写するため。
そう、いっきたちが行きつけにしている喫茶店リドルのマス
ターをクローズアップするためなんです。

三年以上リドルの看板娘を務めてきた美琴さんが辞めた後、
リドルのマスターはなかなか後釜を決めることが出来ません
でした。

悪魔こと校倉嬢は、美琴さんの指導をクリア出来ずにすぐリ
タイア。その後しゃらが度々ピンチヒッターを務めて来まし
たが、学校がありますからウイークデイは出来ませんし、受
験生ですから無理は言えません。

その後瓜生さんという訳ありの子を雇ったものの、やる気が
なくて全く使い物になりませんでした。
困ったマスターはフルタイムのバイトさんを諦めて、シフト
制でバイトを回すことにしました。

これからお届けする三つのSSは、その三人のバイトさんの
視点でマスターを描写する形になります。

お気付きでしょうか?
リドルのマスター。誰もがマスターとしか言いません。
いまだに本名が出てません。『リドルのマスター』のままな
んですよ。
そしてこのSSでも、それは明らかになりません。(^m^)

もちろん、登場する三人の女性はなんらかの訳ありです。
彼女たちがマスターとどう絡むか。お楽しみに。
なお、三話のうち一つは本館のショートショートとしてすで
にアップしたものと同じです。ご了承ください。



ご意見、ご感想、お気づきの点などございましたら、気軽に
コメントしてくださいませ。

でわでわ。(^^)/





sdw.jpg




「そこにいるの?」

「うん」

「うそばっか。いないじゃん」

「うん」

「どっちなの?」

「うん」